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日本古典籍 所蔵資料解説: 蒙古襲来絵詞

附属図書館研究開発室等の事業において電子化された日本古典籍を中心とする資料とその解説をまとめたものです。また、活字本の対応ページから検索できる資料もあります。

蒙古襲来絵詞

蒙古襲来絵詞の高精細画像は九大コレクションで公開しています(自由な二次利用も可能です。詳しくは「権利情報」欄をご覧ください)。
http://hdl.handle.net/2324/411726


「蒙古襲来絵詞」(もうこしゅうらいえことば)は鎌倉時代の肥後国御家人竹崎季長(たけざき・すえなが)が作成したもので、文永・弘安の役(元寇)の様子が絵と詞書に克明に記録されています。 「蒙古襲来絵詞」の原本(現在、宮内庁所蔵)は、近世に熊本藩士大矢野家が所蔵していました。18世紀末に、この絵巻物が発見されると、大名や文人たちの関心をよび、多くの模本が作成されました。 現在、「蒙古襲来絵詞」の模本は40種類ほどが知られており、本ページでご紹介する九州大学附属図書館所蔵「蒙古襲来絵詞」(九大本)は、近世後期に肥後の阿蘇神社にあった模本をさらに写したものです。 この九大本は楽翁本宮崎県立総合博物館所蔵)と同じ系統の模本です。 楽翁本とは、寛政年間(1789~1800)に松平定信が写させたものですから、九大本はかなり早い時期の模本といえます。このため、 原本では破損して読めない詞を判読できる部分もあり、学会でも著名な模本の一つです。

本ページでは九大本の絵・詞の配列を一部変更して掲載しています。 
原史料保護のため、一般公開はしておりません。 


文永の役

 

1274年の秋、元軍は軍船900艘と兵員28000人で博多湾に侵入しました。今津や百道に上陸し、祖原山に陣を構え、赤坂、鳥飼、箱崎などで激しい戦いを繰り広げました。元軍の集団戦法や毒矢・鉄砲という新兵器に苦戦し、水城まで退却しましたが、元軍もその日のうちに船に引き上げました。

 

竹崎季長、博多へ向かう

【解説】
蒙古が襲来した博多へ軍勢が移動している。画面左から3人目が竹崎季長(「肥後国竹崎五郎兵衛尉季長」)。画面右は豊後守護大友頼泰の手勢(「豊後国守護大友兵庫頭頼泰元手軍兵」)。画面中央に見えるのは筥崎宮の鳥居(「はこさきミやのとりゐ」)。詞書

 

蒙古兵を討取る

【解説】
画面右から2人目は三井資長(季長の姉婿)、5人目が季長。画面左には蒙古兵を討取った手勢がみえる(「てのものふんとりあまたなり」)。

 

三井資長、蒙古兵を撃退する

【解説】
画面右は弓を射る三井資長(みつい・すけなが)(「季長姉聟三井三郎資長」)。画面左は退却する蒙古兵。

 

季長、奮戦する

【解説】
画面中央は馬を射られて苦戦する季長と、弓・槍で季長を襲う蒙古兵。画面中央上では鉄砲(「てつはう」)が爆発している。画面左は負傷して退却する蒙古兵と、麁原(そはら)に陣取る蒙古軍の本隊。画面右は、季長の旗指(はたさし)・資安(「季長旗指、三郎二郎資安」)と、季長を救援するため駆けつけた白石通泰(しらいし・みちやす)の軍勢(「白石六郎道泰、其勢百余騎、後陣よりかく」)。詞書

 

季長、御恩奉行・安達泰盛に直談判する

【解説】
鎌倉幕府の御恩奉行・安達泰盛(あだち・やすもり)の屋敷。画面左奥が泰盛。その面前で季長は蒙古合戦の勲功を主張し、恩賞を要求している。詞書

 

季長、泰盛から馬を拝領する

【解説】
季長(左から2人目)は泰盛(右奥)から馬を拝領する(実は季長は鎌倉まで徒歩で参上していた)。詞書

 


弘安の役

南宋を滅ぼした元は、東路軍(元・高麗)と江南軍(元・南宋)合わせて軍船4500艘、兵員140000人の大軍で、1281年再び日本遠征に向かいました。先に出発した東路軍は博多湾に侵入しましたが、防塁や武士の元船への攻撃で上陸できませんでした。江南軍と合流し再び博多湾を目指す途中、長崎県鷹島沖で暴風雨に遭い、多くの軍船が沈み、退却しました。

 

蒙古兵、志賀島に上陸

【解説】
弘安4年6月6日、蒙古軍(東路軍)4万人は博多湾に侵入、志賀島(しかのしま)に上陸して戦闘を開始した。絵には「志賀島大明神」の鳥居付近の蒙古兵が描かれている。

 

季長、河野通有の屋敷を訪ねる

【解説】
志賀島の合戦で軍功をたてた伊予国御家人河野通有(こうの・みちあり)が、屋敷を訪れた季長に戦闘の様子を語っている場面。ちなみに、通有は烏帽子(えぼし)を着けていないが、河野家では合戦の最中に烏帽子を着けないことが慣わしであったらしい。〈画面右から1人目=季長、2人目=河野通有、3人目=嫡子河野八郎〉

 

季長、生の松原の石築地の前を通過する

【解説】
季長が志賀島へ向けて生の松原(いきのまつばら)を出発する場面。画面中央の騎馬武者が季長。その奥で石築地(いしついじ)に腰掛け、赤い扇子を手にしている人物が肥後国の有力御家人菊池武房(きくち・たけふさ)詞書

 

季長の兵船、生の松原から鷹島に向かう

【解説】
石築地と日本軍の防戦により上陸を阻止された東路軍は、江南軍(10万人)との合流のため肥前鷹島に撤退したが、暴風雨に遭遇して壊滅状態となった。閏7月5日、残敵掃蕩のため生の松原から鷹島にむけて出発する季長の兵船。ただし、この船に季長は乗船していない。自分の兵船の到着を待ちかねた季長は、他人の兵船に便乗して、既に出発していたのである。詞書

 

鎮西御家人の兵船、敵船に向かう

【解説】
絵は閏7月5日に鎮西御家人(ちんぜいごけにん)らによる蒙古兵掃蕩戦を描いたもの。画面左から「関東御使かうたの五郎義としの手の物」、「筑前国御家人あきつきの九郎たねむねのひやうせん」、「あまくさの大やのゝ十郎たねやす・同三郎たねむらひやうせん」、「くさのゝ次郎つねなりのひやうせん」、「大宰小弐経資手物兵船」、及び薩摩国守護島津久親(しまづ・ひさちか)の兵船。

 

季長、敵船に乗り込み蒙古兵を討取る

【解説】
季長が敵船に乗り込み、蒙古兵を討取る場面。なお、画面右の「大矢野三兄弟 種保」の注記は、本来「たかまさ」となっていたものを、江戸時代に「蒙古襲来絵詞」の原本を所有していた大矢野氏が改竄(かいざん)したものである。

 

季長、安達盛宗に軍功を報告する

【解説】
絵は首実検の様子を描いたもの。季長は蒙古兵の首を提示して安達盛宗(あだち・もりむね)に軍功を報告し、認定された軍功を「執筆」(しゅひつ)が記録している。なお、安達盛宗は当時の肥後守護・安達泰盛の嫡子で、父の代理として肥後に下向していた。詞書①詞書② 

 

永仁元年、「蒙古襲来絵詞」が成立する

【解説】
「蒙古襲来絵詞」は永仁元年[正応6年](1293)2月9日に成立した。老境に近づいた季長が、恩人・安達泰盛への鎮魂と報謝のために絵詞を作成したとする説がある。弘安8年(1285)、泰盛は平頼綱(たいらの・よりつな)に滅ぼされている(「霜月騒動」)。


*本ページは、学内研究補助費(P&P.平成13・14年度研究課題「九州大学所蔵の記録史料の活用とデジタル・アーカイブス構築に関する研究」、研究代表荻野喜弘)により作成したものです。