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日本古典籍 所蔵資料解説: かげろふの日記解環

附属図書館研究開発室等の事業において電子化された日本古典籍を中心とする資料とその解説をまとめたものです。また、活字本の対応ページから検索できる資料もあります。

『かげろふの日記解環』 付 文政元年版『蜻蛉日記』

人文科学研究院 今西祐一郎

 

 

 『蜻蛉日記』は平安時代中期、藤原倫寧女で藤原兼家室となり、兼家との間に一子道綱の儲けたことから「道綱母」と通称される女性の手になった仮名日記である。
 道綱母の名は、『百人一首』に撰ばれた、

  • 嘆きつゝひとりぬる夜のあくるまはいかに久しきものとかはしる

の歌で名高いが、この歌も『蜻蛉日記』に収められている。
 『蜻蛉日記』は文学史上、仮名日記としては紀貫之の『土佐日記』に次ぐ位置にあり、『枕草子』や『源氏物語』より一世代前の仮名文として、平安時代の文学、語学両面において重要な作品である。
 書名『かげろふの日記』は、上巻末の、

  • かく年月はつもれど思ふやうにもあらぬ身をし嘆けば、声あらたまるもよろこぼしからず、なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし。

の一文に由来する。平安時代にすでにこの書名で呼ばれていたことは、『大鏡』兼家伝の最後に記された次の一節によっても明らかである。

  • 二郎君、陸奥守倫寧のぬしの女の腹におはせし君なり。道綱ときこえし、大納言までなりて右大将かけたまへりき。この母君、きはめたる和歌の上手にておはしければ、この殿のかよはせ給へりけるほどのこと、歌など書きあつめて、かげろふの日記と名づけて世にひろめ給へり。

本日記は通常、版本における表記を踏襲して『蜻蛉日記』と表記されることが多いが、これは正確な表記ではない。
 平安時代、「かげろふ」には二つの意味があった。一つは従来この日記の書名に用いられてきた「蜻蛉」の訓で、「とんぼ」やそれに類する小昆虫をさす。これは『源氏物語』の蜻蛉巻で、

  • かげろふのはかなげに飛びちがひて

と用いられている。

それに対して、いま一つは、院政期の辞書『類聚名義抄』に

  • 陽炎 カゲロフ

と記される、万葉時代には「かぎろひ」と呼ばれた自然現象をさす。
 この問題につき、本日記の「かげろふ」が「蜻蛉」ではなく「陽炎」の意の「かげろふ」であることを明確に論じたのは、近代以前に著された唯一の『蜻蛉日記』の全注釈『かげろふの日記解環』である。『解環』は巻一、凡例之上、「題号弁」に以下のように説いている。

  • 今世流布ノ印本、蜻蛉日記ト題書セリ。蓋是源氏物語ニカゲロフノ巻アリテ、多クハ蜻蛉トカケルニオノツカラ習ヘルニヤト思ハル。愚オモヘラク此日記上巻ノ結語ニ、物ハカナキヲ思ヘハ有カナキカノ心チスルカケロフノ日記ト仮字ニテアリ。此日記ヲ大鏡ニイヘルモ同シク右ノヤウニカケリ。サレハ日記ニイヘル処ノカケロフハ、周荘カイハユル野馬ニシテ陽炎也。詩ニモ作レル所ノ遊糸ニ同シ。且此日記ヲ八雲御抄学書篇ノ私記ニ遊士ノ日記トアケタリ。士ト糸ノ字トハ和音ノトナフル声同シキニヨリテ、蓋印本ニウツシアヤマリシトオモハレテコレ一ノ証拠ナリ。

まさしく『解環』の著者の説く通りであり、本日記の題号は『かげろふの日記』と表記されるべきであるが、版本以来、『蜻蛉日記』という漢字表記が採用され、その習慣は少数の例外(川口久雄「日本古典文学大系」、次田潤・大西善明『かげろふの日記新釈』、佐伯梅友・伊牟田経久『かげろふ日記総索引』、増田繁夫『かげろふの日記評注』)を除いて今日まで続いている。

『蜻蛉日記』は平安時代の作品であるが古写本に恵まれず、今日の研究も、宮内庁書陵部蔵の近世初期の写本桂宮本に依拠する状態が続く。作品が書かれてから600年間、転写に転写を重ねてきたであろう本文は、最善本に位置づけられる桂宮本においても相当に損なわれており、そのままでは意味不明の本文が随所に見出される。
 本日記の本格的な研究は、契沖が元禄十年(1697)に出版された版本に自説を書き入れたことに始まり、以後その契沖書き入れが好学の和学者に受け継がれ、校訂の試みがさまざまになされてきた。そのなかで唯一『蜻蛉日記』全体にわたる注釈書として刊行されたのが、『かげろふの日記解環』(天明年刊)である。
 著者の坂徴(さか・しるし、またチョウとも)は、元禄十年(1697)生まれ、天明五年(1785)没。阿波出身で京都に住んだ国学者。
 坂徴の注釈の特色の一つは、契沖書き入れを尊重しつつ、契沖の改訂案が示されなかった難解箇所についての様々な改訂案の提唱、就中、変体仮名の字形転訛に注目した改訂案の提示である。その基本方針は「凡例之上」に、

  • 契沖諸本ニ直シノ無所ニ及デハ、止事ヲ得ズシテ憶説ヲモテアナグリ求キ。ソノ求ムベキ手ヲヨリハ万ノカナノ転訛セルヨリオシハカリテ、やゝ本ニ復サンヨリ外ニ又術ナキコト治定セルニヨリテナリ。

と述べられ、「そ」と「う」、「ら」と「る」、「な(那)」と「れ」などをはじめとする、変体仮名の字形の類似による文字転訛を指摘し、具体例を挙げて詳しく解説する。
 そのような観点からの本文改訂は、本日記開巻早々から実践されることになる。『蜻蛉日記』上巻はじめ、兼家からの求婚を記すくだりは、

  • さてあのけかりしすきことゝものそれはそれとして、かしわきのこたかきわたりより  かくいはせんとおもふことありけり。

という文章ではじまるが、そこに見いだされる「あのけかりし」という語は、他に用例を見ない不可解な語である。『解環』は、この「あのけかりし」を「あはつけかりし」と改訂した上で、次のように述べる。

  • アハツケカリシノあはつヲ原本あのニ作レリ。契沖本ニハ本ノマヽ言ヲ加ヘズアリ。  愚案ニ恐ラクハはつノ二字訛テ乃ニ変ジタルモノナリ。源氏ヲトメノ巻ニ、人ノキヽ思フ所モアハツケキヤウニナン。又ヤドリ木ノ巻ニ、アハツケサトモイヒ、帚木ニアハツカニトアル、皆アハくシキノ淡ニシテ、誠実ナキノ詞也。

この箇所については、他に「あふなかりし」という改訂案も版本の書き入れに見え、今日でもそれと同じ改訂を施す注釈書(「日本古典文学大系」)もあり、また「あへなかりし」という改訂案(「日本古典文学全集」)もあって、見解の一致を見ないが、「あはつけかりし」は今日なお有力な一説である。
 変体仮名の字形の類似に基づく転訛による改訂は、その行き過ぎが危惧された時期もあったが、柿本奨『蜻蛉日記全注釈』において再評価され、同書において柿本氏によるさらなる改訂案が多数提出されている。
 『蜻蛉日記』の本文復元の最大の手がかりは、やはり変幻自在な変体仮名の字形であり、今日なお本文改訂の原点というべく、その意味で本書『解環』は今後とも『蜻蛉日記』本文整定作業の出発点となる著作である。
 本書は唯一の『蜻蛉日記』全注として、早く明治・大正期に「国文注釈全書」、「国文注釈叢書」に翻字して刊行されたが、そのいずれにおいても原本の漢字・カタカナ交じり表記が、漢字平仮名表記に変えられ、原著の趣を損うこと著しいものがあった。
 今回、『かげろふの日記解環』ならびに版本『蜻蛉日記』の画像データベースを作成し、本日記研究の原点に立ち還る一助とする。

本画像データベースは、猪熊信男旧蔵本(九州大学附属図書館寄託本)を使用した。旧蔵者猪熊氏(1882〜1963)は「恩頼堂文庫」と名付けられた膨大な蒐書家として知られ、その旧蔵の古文書は広島大学に、古典籍は四天王寺国際仏教大学に収められた。
 後者古典籍については、『四天王寺国際仏教大学所蔵恩頼堂文庫分類目録』(2003年3月刊)によってその全貌を窺うことが出来、また猪熊氏と恩頼堂文庫については、須原祥二氏「猪熊信男と恩頼堂文庫について」(「日本語日本文化論叢埴生野」第2号)を参照されたい。
 該本は『かげろふの日記解環』本体18冊のほかに、13丁からなる「内容見本付き予約募集」の冊子を附属する。この冊子については、幸いにも本学名誉教授で近世版本書誌学の第一人者、中野三敏氏の解説を頂戴することができたので、以下に掲げる。中野氏のご協力に御礼申し上げる。


『かげろふの日記解環』内容見本付き予約募集冊子について

九州大学名誉教授・福岡大学教授  中野三敏

 

 

本冊は、首一丁が板元の林伊兵衛による、天明三年正月付、予約募集の文言にあてられ、全十八冊の正価卅五匁のところを、五月迄に入金されゝば廿八匁で、来年三月迄に配本する旨が記され、以下、内容見本として著者坂徴の自序全部六丁分と、凡例の初二丁分、本文上巻のやはり初めから四丁分迄、以上全十三丁を以て一冊とする。
 本巻十八冊と比べて縦の寸法が二,三ミリほども小さく、表紙も、本巻のそれが縹色地に濃緑の横雲六筋を引くのに対し、縹色無地の厚紙を以てするので、明らかに本巻とは別仕立であり、本巻第一冊の刷上りに先がけて、内容見本付き予約募集冊子として配本されたものであろう。自序六丁分の諸所に浚え残しの痕跡が残り、一丁ウ四行目下部「紫」字の右傍には振仮名の文字を彫りつけた上から、墨板を用いて訂正を企てた墨格が残されるなど、本巻十八冊の刊行に先がけてのものであることは明白である。
 但し蔵書印は本巻と同じ「猪熊蔵書之印」の朱條印を持つので、猪熊氏の入手時点では本冊を付属した十九冊本となっていた事も明白である。

以上、本冊は板元林伊兵衛により、本巻刊行に先がけて、内容見本付き予約募集の為の冊子として配本されたものであることは明確だが、筆者は寡聞にして江戸期における同様の事例を知らない。
 但し、単なる予約募集の摺り物については、以下の三例を掲げることは出来る。

(一)に、『群書類従』開板予告・予約募集の一枚摺り。(天明六年)
 これは現内閣文庫蔵、大田南畝自筆本『一言一話』巻六「塙保己一」の項に実物の刷物 一枚が貼付してあるもの。既に岩波書店版『大田南畝全集』第十二巻二五七頁に影印と翻字を載せたので御参照願いたい。初めに部立てと巻数のみを列記し、その後に「望の者多く有之候巻、先々月より一二冊づゝ開板仕候。いづれの部にても御好みに任せ候間、御懇望の方は当六月廿五日より十月六日迄に、土手四番町塙検校宅え可被御遣候。〜料は今物語の通の紙仕立にて、紙十枚六分二リン、仕立て四分五リンに御座候」とあって、南畝の書き込みに天明六年のものという。

(二)に平田篤胤が企画した「進学会積金仕様」と題する一枚摺り(天保四年十一月)。
 これは篤胤・鉄胤父子が自著板行推進の為に企てた組織作りの為の規定書であり、渡辺金造(刀水)著『平田篤胤研究』の三四二頁に全文翻印されている。世話人に和泉善平と下総の宮負佐平という門人代表を置き、集金方には神田岩井町の小林三右衛門の名があって、一口分として月に銀一匁宛を積立てることとし、「出来次第、御加入の方々へは、一口分へ書物一部宛呈上可致候」といゝ、「門人衆中は自他とも御一人にて十口以上、二百口も御持可被下候事」と大分厚かましい。

(三)に、「活字版宋槧太平御覧印刷之大意」(安政二年)。
 進学館教諭喜多村直寛が、和刻本『太平御覧』一千巻百五十三冊を木活字で刊行を図った時の摺り物で、それ自体を木活字で印刷したコヨリ綴じ二丁半のもの。現東京大学南葵文庫蔵の『太平御覧』に附けられている。これも「雅俗」第五号(平成十年一月)の一八八頁に影印を載せた。「巻帙夥多ナレバ費用モ亦少カラズ。因テ今御覧一帙ノ価ヲ十二円三方ト定ム。目録ヲ一帙トシ、本文廿巻ヲ以一帙トシテ、一帙成ル毎ニ請人ニ贈ルベシ。其時ニ金一方ヲ投セラルベシ…」「同志ノ士、五六部ヲ引受テ懇友知己ヘ慫慂シタランニハ、活字ノ書ヲ以テ其ノ周旋ノ労ニ報ベシ」などとあって、一口に千歳の普及を図るなどとは言うものの、昔も今も大部の出版を企てるには、相当の苦労がつきものの如くである。

因みに、明治十四年頃から、古書翻刻の予約出版が一時大いに流行したことは、かの『明治事物起原』第七編にも「予約出版の始め」なる一項がたてられて著名な出来事でもあった。そのとき主導役を果たした鳳文館主前田黙鳳の事業については、ロバート・キャンベル氏の詳細な報告(「東京鳳文館の歳月(上・下)」『江戸文学』十五・十六)が備わる。