人文科学研究院専門研究員 田村 隆
人文科学研究院教授 今西祐一郎
花山院の出家や肝試しなどの逸話で有名な歴史物語『大鏡』は、ほとんどの古典の教科書にも採られているが、教科書や各種の古典文学全集を含め、今日われわれが目にする『大鏡』はその大半が、最良の伝本とされる東松本を活字におこしたものである。
ところが、そういった通行の本文とは別に、時としてそれらの本文とは異なる内容を持つ『大鏡』(写本3冊)が本学附属図書館萩野文庫に所蔵されて いる。「萩野文庫本」として広く知られる一本である。本年度(平成19年度)はこの萩野文庫本『大鏡』の画像データベースを公開し、閲覧に供す。尚、参考 資料として、同じく萩野文庫所蔵で『大鏡』と同筆と思われる『水鏡』(写本1冊)、ならびに、支子(くちなし)文庫所蔵の古活字版『栄花物語』(16冊 存)の画像データベースを併せて公開する。本データベースには例年同様検索システムを付しており、各々の活字本頁数を入力すれば、対応する画像が表示され る。『大鏡』については秋葉安太郎『大鏡の研究』(桜楓社、昭和36年)に拠り、『水鏡』については榊原邦彦編『水鏡 本文及び総索引』(笠間書院、平成 2年)に、『栄花物語』については「日本古典文学大系」の頁数にそれぞれ拠った。
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本学附属図書館萩野文庫所蔵の『大鏡』は、平田俊春氏によって注目され、同氏の『日本古典の成立の研究』第1章第3節「萩野本とその系統本―塵袋 所引大鏡系統本の発見と池田本系の諸本―」(日本書院、昭和34年。初出は『国語国文』昭和26年11・12月)によって紹介された。その後、根本敬三編 『対校大鏡』(笠間書院、昭和59年)によって対校本文として活字化され、その実態が知られるようになった。それらの解説に従いながら、萩野文庫本がどの ような性格の本であるのかを以下に略述する。
文永11(1274)- 弘安4(1281)年頃にかけて成立したと言われる事典『塵袋』に、次のような『大鏡』の引用が見られる。平凡社東洋文庫版(大西晴隆・木村紀子校注)によって掲げる。
又御堂ノ関白ノ町尻殿ト双六ウチ給ヒケルトキ、マチジリドノヽアシノウラニ道長トカキタマヒケルヲミツケテ、ワレヲノロヒタマフトハシリタマヒニケルトイフコト、ヨツギノ大カヾミノマキニアルニヤ。
『塵添壒嚢抄』にもほぼ同文の内容が見られるが、この記事は通行の『大鏡』には存在せず、注釈書の類でも、
壒嚢抄に、御堂関白は町尻どのと双六を打給ひて町尻殿足の裏に道長と書給ひたるを見給ひてのろひけるとは知給ひけると世継大鏡の巻にみえたりとあれど、今の本には此事なし、かかる本も有けると、
の如く、現存伝本には存在しない記事だと考えられてきた。ところが萩野文庫本には、
かくまであそばせ給に帥殿のとかくゐなをりあしさしいで給へるあしのうらに道長とかゝれたるを入道殿みつけさせ給てとうしりつくやうにて帥殿のあしをいたくつかせ給けりかゝるまじわざし給てさはやはわすれ給べき心おはせぬとのなりや
という一節があって、『塵袋』が伝えるのと同様、足の裏に「道長」と書く呪いのことが記されている。平田氏が萩野文庫本『大鏡』に注目したきっかけはこの点であった。
さらに、顕昭の『古今集注』(『日本歌学大系』別巻4所収)に、『伊勢物語』に登場する二条后と五条后について触れたところがあるが、その中で、
世継大鏡云、伊勢物語ニ業平中将ノヨヒへゴトニウチモネナヽントヨミタマヒケルハ、コノ宮ノオホムコトノヤウニ候ヌル、イカナ ルコトニカ、二条ノキサキニカヨヒマウサレケルアヒダノコトヽコソウケタマハレ。春ヤムカシノナドモ、五条ノ后ノ御家トハベルハ、ワカヌ御中ニテ、ソノ宮 ニヤシナハレタマヘレバ、オナジトコロニオハシケルニヤ。
として『大鏡』を引用している。ところが、通行の本文、たとえば東松本には、
伊勢語(モノガタリ)に業平の中将のよひへごとにうちもねなゝんとよみたまひけるはこの宮の御事なり春やむかしのなども。
とあるのみである。しかしこの記事に関しても、萩野文庫本には、
伊勢物がたりになりひらの中将よひへごとにうちもねななんとよみ給けるはこの宮の御事なり春やむかしのなどもおなじことのやう に候めるいかなる事にか二条のきさきにかよひまされけるあいだのことどもとぞうけ給りしを春やむかしのなども五条の后の御いゑと侍はわかぬ御中にてその宮 にやしなはれ給へればおなじ所におはしけるにや
とあり、『古今集注』とほとんど同文に作る。また、同じく『古今集注』の、
又大鏡云、二条ノ后ノミヤヅカヘシソメ給ケムヤウコソオボツカナケレ。イマダヒメギミニテオハシケルトキ、在中将ノシノビテヰテカクシタテマツリケルヲ、……
というくだりについても、ゴシック体の部分が通行の『大鏡』本文には「いまだよごもりて」とあるのに対して、萩野文庫本には「いまだひめぎみにて」とあり、『古今集注』と一致する。
これらを見ると、異本系の『大鏡』もかなり早い段階から流布していたことが窺え、興味深い。その他、萩野文庫本に見られる傍注がしばしば古活字版『大鏡』に取り入れられている点などから、ある程度広い範囲で萩野文庫本系統の本文が知られていたこともまた確かであろう。
萩野文庫本はこれまでは『対校大鏡』の左列に掲げられた活字によってしか窺うことが出来なかったが、今回の画像データベースによってその様態を詳しく検討することが可能になる。
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ただし、この萩野文庫本は中巻に錯簡が見られるので注意を要する。この錯簡問題についても平田氏が整理しているので以下に掲げる。
この本の中巻は大きな錯簡となっている。すなわち墨付百帳のうち、第一帳の次が九十九帳表四行目につづいて巻尾百帳表六行に至 り、次が九十八帳五行目につづいて九十九帳表四行に至り、次が九十八帳表六行につづいて九十九帳表四行に至り、かくして順次前に連絡して第二帳に遡って、 終りとなっている。これはこの本の親本が書写の際に、第一帳からそのままつみ重ねて、全部でき上ったとき第一帳のみを上にもってきて、とじたのを、そのま ま書きのべたためであろう。この錯簡により、その親本の一帳の行数が裏表あわせて二十二行であることが知られ、従ってこの本が一面十一行であるのもその親 本の形をそのまま伝えていることが知られる。
すなわち、萩野文庫本が元にした親本が仮に全100丁だとすれば、
第1丁 | → | 第100丁 | → | 第99丁 | → | 第98丁 |
という順番で並んでおり、萩野文庫本はその親本を順序を正さぬまま写したために本文が進んだり戻ったりする錯簡が発生したと考えられる。
そのせいで、画像データベースに付された「大鏡の研究」の頁数は、
81→82→166→167→165→166→……→83→84→82→83
の順になっており、相当に錯綜している。中巻を第1丁から順に読み進めるのは極めて困難であるため、「大鏡の研究」対応の検索機能を利用していただきたい。
尚、萩野文庫本について平田氏は、『大鏡』諸本のうち三条家本や広橋家本との一致を指摘している。室町時代の古写本であるがいずれも完本でなく、 異本系『大鏡』の全貌を窺うには全巻を備える萩野文庫本は極めて重要な伝本である。広橋家本については、乙部譲爾「大鏡の八巻本(一)」『書誌学』 9-6(昭和12年)に「岩崎文庫旧蔵本」として紹介されている。この本は岩崎文庫・東洋文庫の所蔵を経て、現在は国立歴史民俗博物館が所蔵している。博物館ホームページ(http://www.rekihaku.ac.jp/)の「館蔵資料画像データベース」に公開されているので、萩野文庫本と比較されたい。
萩野文庫本自体の由来は明らかでないが、それを窺う補助資料は存在する。冒頭に触れたように、萩野文庫には『大鏡』と同筆の『水鏡』が所蔵される。両者は題箋を含め同じ筆跡と思われ、この『水鏡』には、
此水鏡申請大慈光院南御方御本妙善院殿御物也借卿掌侍故中納言基綱卿女筆令書写可秘蔵也
永正第九後四月十六日 古槐散木判
という奥書がある。『大鏡』には奥書の類は一切見られないが、同筆の『水鏡』と共に伝来した本であるならば、『大鏡』にもこの奥書と同じ由来が考え られるのではなかろうか。このような観点から今回の画像データベースに萩野文庫本『水鏡』も加えた。書写態度の検討などにおいて、『大鏡』と併せて参照さ れたい。
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古活字版『栄花物語』についてもいささか触れておきたい。古活字版の『栄花物語』は1冊に2巻が収められ、全40巻20冊から成るものである。本文は各葉11行で、寛永頃の刊行とされる。ただし、本学附属図書館支子文庫蔵本は4冊欠の16冊であり、その点が惜しまれる。
『栄花物語』の最古の写本とされるものは、もと三条西家が所蔵し、梅沢記念館の所蔵を経て現在は九州国立博物館の所蔵である鎌倉期の写本である。九州国立博物館の案内パンフレットには巻21「後くゐの大将」冒頭の写真と共に、
国宝
紙本墨書 九州国立博物館所蔵
平安時代の200年間におよぶ宮廷の歴史を仮名文で記した日本最初の歴史物語。わが世の栄華を満月にたとえた藤原道長の生涯を中心に、平安貴族の哀楽や生活の明暗を会話や和歌などを交えて生き生きと描く。完存最古の写本として、国宝に指定されている。
と記されている。この本は勉誠社から『栄花物語 梅沢本』として影印も刊行されている。
しかしながら、今でこそ各種の古典文学全集の類はこの九博本(旧梅沢本)に拠っているが、かつては『史籍集覧』(明治16年)、『国史大系』(明 治34年)などに収められた『栄花物語』はいずれも古活字版を底本としていた。このほか、明治24年刊行の『日本文学全書』は、伴直友所持の古活字版転写 本を基とし、昭和2年刊行の『日本古典全集』も『史籍集覧』を底本としているので、これらの本も遡れば古活字版に行き着く。詳しくは松村博司『栄花物語の 研究』(刀江書院、昭和31年。平成4年に風間書房より再刊)を参照されたい。『国史大系』については、その第15巻に『古事談』、『古今著聞集』、『十 訓抄』と共に収められ、その凡例には、
栄華物語は大澤清臣翁校本小中村清矩翁校本上野図書館本及び史籍集覧本等を以て活字本に訂正増補を加へたり而して栄華物語巻廿五以下は校合の機会を得ず僅に史籍集覧本を参考したるに過ぎずされば他日更に改訂し以て完璧とすべし
とある。但し、本書にはかなりの校訂が加えられており、元の古活字版本文そのものではない点は注意が必要である。
九博本(旧梅沢本)が底本に採用されたのは、昭和6-9年の岩波文庫版以降のことである。『国史大系』についても、昭和13年、『新訂増補国史大系』第20巻(吉川弘文館)に『栄花物語』が収められるにあたって、底本が変更された。そのことは、凡例に、
旧輯国史大系第十五巻には活字本を底本として収めしが、今新に三条西伯爵家所蔵本を原とし、……
と明記されている。
川瀬一馬『増補古活字版之研究』(The Antiquarian Booksellers Association of Japan 、昭和42年)にはこの古活字版『栄花物語』について、
本書は元和寛永中の開版と認められる。稍小型の様式の整つた活字(発句帳一本と同種)を用ひてゐるが、巻末に従つて活字の磨滅 が著しくなつてゐるのは、かゝる大部な書籍を印行する際に於ける活字其の他の準備の完全でなかつた事が察知せられると共に、活字を極めて経済的に利用した 当時の出版情況が窺はれる。
との説明があり、所蔵機関として、「図書寮・神宮文庫・帝国図書館・内閣文庫・東京文理科大学・京都帝国大学・山口県立図書館・東洋文庫・久原文 庫・岩瀬文庫・静嘉堂文庫・高木文庫・田中忠三郎氏・松井簡治博士・大島雅太郎氏・布施巻太郎氏・田村専一郎氏・安田文庫・陽明文庫・日光天海蔵」が挙げ られている。今回画像データベースを公開するのはこのうちの田村専一郎氏旧蔵本である。先に「支子文庫蔵本」と紹介したが、支子文庫とは田村専一郎氏の文 庫を指す。
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『栄花物語』の板本は江戸期に3種が刊行されている。一つはこの古活字版である。次に、刊年不明で承応?寛文頃の刊行と言われる絵入本9冊があ る。本書は全巻の本文ではなく抄出本文で、そのことについては中村康夫「『栄花物語』絵入版本について―抄出本文から考察する」(『国文学研究資料館紀要 (文学研究篇)』31、平成17年2月)に詳しい。続いて、明暦2年に中本21冊が刊行された。岩波書店から『歴史物語 CD-ROM(国文学研究資料館 データベース古典コレクション)』が刊行されているのは、この明暦版である。
そして、明暦版は古活字版の本文に拠って製作されたものと考えられる。巻8「はつはな」における錯簡の一致などから両者の近さはこれまでに指摘さ れているが、ほかにその影響関係を強く示唆する例を紹介しよう。それは、古活字版において以下のように「物忌」の語が現れる箇所である。まずは二例を掲げる。
さらぬはさべう御物忌などにて (巻1 上29)
れいならずなやましげにおぼしめして御物忌などしげし (巻1 上51)
これらの「物忌」の箇所について、明暦版ではいずれも平仮名で「ものわすれ」と記されているのである。「忌」の漢字を「忘」と誤読したためであろ う。用例の後に「大系」の頁数を記したので、古活字版の「物忌」の字体を画像データベースによって確認されたい。これは文脈を全く考えないことから起こる 安易な誤りであり、明暦版の製作態度が十全なものでなかったことはこの一事によっても明らかであろう。
古活字版(第1冊4丁表) |
明暦版(第1冊4丁表) |
そして、両者の影響関係は、古活字版『栄花物語』の残りの全用例を検討してみることで明らかとなる。以下の引用に際し、九大本にない巻については、内閣文庫本・山口県立山口図書館蔵本に拠った。
うちにも御ものいみがちにておはします (巻2 上98)
殿にも御門をさして御ものいみしきりなり (巻5 上161)
あすあさつて物いみにはべり (巻7 上227)
あすよりは御物忌とてこよひみなもてまいりぬ (巻8 上272)
その日は内の御物いみなれば (巻8 上276)
御物忌なる日皇后宮の御湯殿つかうまつりけるに (巻12 上373)
うたてあるまであれば御物いみがちなり (巻12 上373)
ものいみすまじうあはれにみえさせ給 (巻13 上407)
ものいみもせさせ給はずなりにけり (巻19 下107)
さしぐしにものいみをさへつけて (巻27 下264)
御物忌の日ましてけふあすと申たる (巻34 下415)
さしぐしにものいみいとしてもみぢきくつけたり (巻36 下463)
以上の計14例である。これらを逐一明暦版と照合してみると、古活字版において漢字で「物忌」とあるものについては「ものわすれ」に誤るものの、平 仮名を交えて「物いみ」、「ものいみ」とあるものについては明暦版でも「ものいみ」のままであることが判明した。この対応関係は上記の例すべてについて完 全に一致する。やはり明暦版は古活字版を基に製作された可能性が非常に高いと考えてよいであろう。これに類する現象は、「御いみ―御わすれ」についても見 られ、古活字版では、
中宮は御忌はつるまではとおぼしめしながら (巻13 上395)
故うへの御忌月なりければ (巻24 下178)
とあるのが、明暦版ではそれぞれ「御わすれはつるまで」、「御わすれづきなりければ」に作る。「物忌―物忘」の場合と同じである。ちなみに、これらの誤読は明暦版に固有のもので、同じ板本でも絵入の9冊抄出本には見出せない。
ただし、古活字版と明暦版との間には上述のような誤読とは別種の異同もわずかながら散見されるため、松村博司氏が指摘するように両者の間に別の伝 本を置く可能性もなお否定はできない。だが、あえて別の一本の介在を考えなくとも、例えば明倫館旧蔵の山口図書館本のような、書入を含む古活字版を基に明 暦版が作られ、随所にある書入が明暦版本文に取り入れられたといったことも考えられるのではなかろうか。板本『栄花物語』の本文研究の立場から今後さらな る検討が俟たれるところであるが、いずれにせよ古活字版『栄花物語』の強い影響力は疑いなく、明暦版を含めその影響下にある本文が昭和初期に至るまで長く 用いられ続けたことは特筆に値しよう。