人文科学研究院専門研究員 田村 隆
人文科学研究院教授 今西祐一郎
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「日本古典文学大系」の『宇津保物語』3冊は、昭和34年、河野多麻氏の校注によって刊行が開始された。その本文作成に大いに利用され、第1巻の 口絵に載っているのが、今回閲覧に供する九州大学附属図書館所蔵の細井貞雄書入本、いわゆる「九大本」である。書入によるその特異な本文は、『うつほ物 語』研究において「九大本では……」といった形でしばしば言及されてきたが、その呼称はあくまでも貞雄の書入を有する板本に対して便宜上与えられたもので あり、「九大本」という名を持つ一つの伝本が存在するわけではない。これまでの研究ではその点があいまいなまま、「大系」の校異欄などに拠って安易に引用 されてきたと思われる節もある。本年度はこの九大本の画像データベースを公開し、書入本という原本の姿に遡っての検証に資するものである。
書入 をなした細井貞雄とは、江戸時代後期の国学者である。安永元(1772)年、江戸浅草の質屋の家に生まれるが、家業を厭い、幕府の桶大工頭水具師細井家の 株を買って桶御用を勤めるという経歴も持つ。だが文化初年にはそれも弟に譲って浅草に閑居したという。文政6(1823)年の9月、52歳で没した(『国 書人名辞典』)。宣長門下である彼は、『玉の小櫛』の影響を受け、『うつほ物語』の注釈書、『
『玉琴』において、貞雄は『うつほ物語』と『源氏物語』を喩えて、
此物語は、かみさびたる翁に
対居 てものがたりせるにおなじう、彼物語は、いとはなやぎたる若人とむつものがたりせるにたぐふべし。
と述べる。「此物語」とは『うつほ物語』のこと、「彼物語」とは『源氏物語』のことである。彼は続けて、
人のこゝろに古今のわきためなきことにしあなれば、はやくよりかみさびたる翁なる此物語はすさめられしならめど、よく思ひみよ、はなやぎし若人のむつものがたりとかみさびし翁のものがたりとは、いづれにしもぞことのやくは多かる。
と、『うつほ物語』が「すさめられし」状況を嘆いている。本書の冒頭には、
よきひとの手をだにふれよ玉琴のこととゝのはぬしらべながらも
という詠草も記され、ここからもこの物語に対する思いが伝わる。
ところで、貞雄が「すさめられしならめど」と嘆いた状況は、この物語の本文が錯簡等を含んで著しく乱れていることにも大きな原因があったと思われる。就中、延宝5(1677)年に刊行された絵入板本は、本居宣長が、
巻の名たがへるあり、その
次第 もみだれて、よみつゞけがたし。(『玉勝間』巻2)
と嘆くほどに粗悪な本文だったのである。 その状況は、『浮世風呂』(3編下、文化9(1812)年刊)の「かも子」「けり子」のやりとりからも窺い知れる。
けり子「鴨子さん。此間は何を御覧じます」かも子「ハイ、うつぼを読返さうと存じてをる所へ、
活字本 を求ましたから幸ひに異同を訂してをります。さりながら旧冬は何角用事にさへられまして、俊蔭の巻を半過るほどで捨置ました」けり子「それはよい物がお手に入ましたネ」
『日本国語大辞典』(第2版)にも、「
そして、細井貞雄が試みたのもまさにこの「異同を訂」す作業であった。貞雄は、「友人某」のある一写本を用いて板本と校合したのだという。延宝 5(1677)年版を補刻した文化3(1806)年刊の板本に細かく書入がなされたその本は、一般に流布するどのテキストとも一致しない極めて特異な本文 を持つ。
九大本には書入についての次のような奥書がある。
戊辰正月七日加一校畢
(俊蔭・上末)
右件友人某所蔵依古写旧校訂本加校合畢猶他日可考勘者于時戊辰六月十一日窓外聴夕雨叙雲箋記焉 源阿曽美
(楼上・下二末)
「源阿曽美」とは貞雄のことで、『宇津保物語玉松』(文化6(1809)年成立)に、
亡友菅原久寿がもとなりしこの物語の写本に校合せし時、やゝたがへる所々しるしとゞめしをふるきぬのうちすてゝおきしを、こたびとり出て見るに、むべよしと思ふことの多かれば、かゝるものをうちおかんも本意ならず思ひおこして……
と記していることから、「友人某」はこの「菅原久寿」なる人物と考えられているが、残念なことにその所持していたという本は現存しない。
前述の如く、本書はその書入によって、あまりにも元の板本とかけ離れた内容を持つ。そもそも、物語の巻序からして、
俊蔭・忠こそ・藤原君・嵯峨院・梅花笠・吹上上・吹上下・祭使・菊の宴・あて宮・初秋・たつのむら鳥・蔵開上・蔵開中・蔵開下・国譲上・国譲中・国譲下・楼上上・楼上下
の順であり、通行の「俊蔭・藤原君・忠こそ・春日詣・嵯峨院……」の並びとはかなり異なるのである。
異同のうち、小さなものについては、 板本の本文に見消や胡粉による塗抹を用いて校訂が行われているが、大きな異同については、貞雄が別紙に書写したものが数丁にわたって綴じ込まれている箇所 もある。それが最も顕著に見られるのは、従来の『うつほ物語』研究において嵯峨院・菊宴・蔵開下・国譲中などの巻々に指摘されてきた、いわゆる重複・錯簡 問題の存する箇所で、その前後の本文は他本に見られない特徴を持つ。
重複問題を例にとると、現行のテキストにおいては、嵯峨院巻に、
かくて、春宮、九月二十日、詩作り給ひしに、人々なんど、例の、上達部あまた参り給へり。左大将は、参り給はず。博士どもなど あまたありて、いとかしこく詩作らせ給ふ。御遊びなどし給ふ。こと静まりて、これかれ御物語のついでに、春宮、「今日ここにものし給ふ人々の中に、ことも なき娘、誰持給びたらむ」。左のおとど、「この中には、けしう侍らずや侍らむ、正明の中納言、子や持給びたらむ。それも、まだ小さくなむ聞こえ侍る」。源 中納言、「左大将の朝臣こそ、女子あまた持給びて侍るなれ。これかれ優にてなむ、集ひて候ふなる。さて、今一人二人は、こともなくてものせらるなる」。 「季明が身にても、一人侍るなり」。平中納言、「一人のみにはあらじ。またも聞くやうあり」。兵部卿の宮、「さがなき物言ひかな」とて、うち笑ひ給ひて、 源宰相うち見合はせ給へば、「いとかたはらいたし」と思ひて、物ものたまはず。春宮の、「この上野の宮の物咎めし給ひしこそ、ことなく聞こゆるや。我らを ば、懸想人の数にも入れざなるこそ、からけれ。」左のおとど、「仰せ言あらば、はやうこそ奉り給はめ。かしこまりてこそ参らせ侍らめ」。宮、「さし向かひ ては、言ひにくく思ほえてこそ。『ことのついであらば』と思ふを、まだ、えものせずや」とのたまふを聞きて、源宰相・兵部卿の宮・平中納言など、「いとわ びし」と思ふこと限りなし。「宮召さば、必ず参りなむを、いかにせむ」と思ほす。心魂惑ひ騒ぎて、何の物の興もおぼえ給はずなりぬ。
という菊花宴の記事があるが、一方で、菊宴巻冒頭の残菊宴もまた、
かくて、霜月のついたち頃、残れる菊の宴聞こし召しけるに、親王たち・上達部参り給ふ。博士・文人ら召して、詩作らせ、御遊び などし給ふ。大将のおとどのみ、参り給はず。かくて、夜深くなりて、春宮、御遊びなどし給ふついでに、「ここにものせらるる中に、こともなき娘、誰、多く ものせらるらむ。賭物にして、娘比べなどせられよや」。左のおとど、「この中には聞こえずなむ。平中納言ばかりや。それも、小さくなむ聞こえ侍る」と。源 中納言奏し給ふ、「左大将の朝臣にひとりをてしりうくかう上らなと母こはきかたきなむあやしき。娘の苑にこそあれ。『天の下の人、集へられ果てぬ』と見給 ふれど、なほ、また、多く侍なり」。左のおとど、「おのへにも、一人二人は侍らむ」。平中納言、「さのみはあらじ。またも聞こゆるやうあり」。兵部卿の親 王、「さがなの物言ひや」とて、春宮、源宰相を見やり給へば、「苦し」と思ひて、物ものたまはず。春宮、「かの集へらるなる内に、など入らざらむ」。左の おとど、「仰せ言候はば、奉り侍りなむを。かしこまりてこそ候ひ給ぶらめ」。春宮、「『ことのついであらば』と思へど、すずろにおぼえつつ、まだ、かの大 将にもものせず。かの人には、時々消息などものすれど、をさをさいらへもものせられずや」などのたまふほどに、左大将のおとどなどものし給へり。……「何 か、そは。罪あらば、奏せさすばかりにこそはあなれ。な思しわづらひそ」。大将、「さらば、仰せ言に従はむ」など奏し給ふを、そこばくの人、肝心を砕きて 思す中に、源宰相、青くなり、赤くなり、魂もなき気色にて候ふを、左のおとど、見やり給ひて、「いと悲し」と見やり給へり。
といったように語られる(引用は室城秀之『うつほ物語 全』(おうふう、平成7年)による)。長文にわたって引用したが、両者を比べれば春宮・兵部 卿宮の発言や宴の欠席者に至るまで内容が逐一重複していることは一目瞭然である。この不可思議な現象は江戸時代以来、多くの研究者達を悩ませてきた。大正 4年に刊行された「有朋堂文庫」では重複記事に囲みをかけるなど、苦心の跡が見える。
ところが、九大本では重複するそれらの内容が一元化されており、いかにも矛盾がないように見えるのである。具体的な様相を挙げれば、九大本の嵯峨院巻は、
かくて右大将殿にかへりあるしし給それは例のことなん
から始まり、20丁近く進んだ辺りで文章は印刷本文から貞雄自筆に移り、間もなく問題の重複箇所にさしかかると、
かゝるほとに十一月はかりになりぬ
と(現行の)菊宴巻の残菊宴の場面に飛ぶのである。そのまま3丁ほど行くと、
このむすめかくめてたう春宮にもまゐらせよとのたまはすれとえみやつかへなとにもいたさすなとしてあるにこのなかよりの少将せちによはふ
の記述から嵯峨院巻に戻る。さらに、巻末近くにさしかかって再び、
かくて源宰相は三条堀川のほとにひろくおもしろき家にすみ給ふ
の一文から菊宴巻の記述へと移り、そのまま巻が閉じられる。現行の菊宴巻の一部が、嵯峨院巻に存していることになる。たしかに重複はないが、その 分、現行の嵯峨院巻と菊宴巻とが錯綜した極めて特異な本文なのである。「友人某」の本も貞雄の言うようにこのような本文であったのだろうか。そしてその本 は「古写旧校訂本」と認め得るものであったのか。いずれにせよ、二つの巻の印刷本文を交互に並べかえる作業に加え、所々に綴じ込まれた貞雄自筆の本文はこ の巻だけで7丁に及ぶ。印刷された丁との境目は、自然につながるよう文字の間隔も配慮されており、九大本の校訂は相当な苦労を伴う作業であったことが想像 される。
このような事情を考慮し、本データベースの検索システムの底本には、九大本に近い本文を持つ「日本古典文学大系」を使用した。大系の巻・頁数を入力すれば、対応する九大本の画像が表示される。
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九大本はかつて論争の渦中にあった。発端となったのは、河野多麻氏による一連の論考である。氏が東北大学特別研究生時代の昭和26年8・9月に発 表した「宇津保物語錯簡と細井貞雄の業績(上)(下)」(『国語と国文学』)において九大本の優位を主張して以来、氏は一貫して九大本こそ現行の如く本文 が乱れる前の正しい姿を伝えるものだと評価した。九大本を「いづれにも勝る善本である」とし、その理由を、
流布本系の様々な問題、即ち巻序の問題をはじめ錯簡誤脱の問題、加ふるに最も甚だしい痼疾と考へられた、嵯峨院巻と菊宴巻とにある重複本文の問題等を一挙に解決し得たと信じたからでした。
(『うつほ物語異本の研究』)
と述べている。
氏は、『校本うつほ物語』(興文社、昭和15年)の諸本解題で九大本に言及した笹淵友一氏に九大本の存在を教えられ、昭和24年の春に九州を訪れて調査したのだという。ただし今、笹淵氏の解題を少しく引用すれば、
その校異は諸本の本文と著しく異る部分がある。その最も顕著な場合は嵯峨院・菊の宴・蔵開下・国譲中の四巻であつて、嵯峨院・ 菊の宴・国譲中の重複錯簡は本書に正されている。蔵開下の本文は必ずしも本来錯簡があるとはいへないが貞雄本は兎も角も新しい本文を提供してゐる。然るに 現存の写本にはかくの如き本文を有するものは一本もないので貞雄の校合が果して古本を忠実に校合したのか、或は私意を以て改めたのではないかといふ疑惑が 生ずる。その拠つたといふ菅原久樹所持本の所在が明らかでないのは惜しむべきである。―後略―
とあって、氏自身はこの本に対してかなり慎重な態度を示していることがわかる。
そして、河野氏の主張に対して寄せられた多くの反論はまさ に笹淵氏が抱いたこの不審点をこそ指摘するものであった。片桐洋一「宇津保物語の構成―俊蔭の巻と嵯峨院、菊の宴両巻をめぐって―」(『国語国文』昭和 29年9月)において、現存諸本では菊の宴の巻のみに見られる中将涼・少将仲頼・大内記藤英・忠こそ法師などのあて宮への懸想の部分が九大本の如く嵯峨院 巻にあった場合、本来その後の吹上上巻に初めて登場するはずの涼の存在が説明し難い点を指摘し、河野氏とは全く逆の立場に立って、九大本は錯簡を正そうと 両巻の本文を組み合わせて作られたものではないかと論じた。また、「あて宮物語と忠こそ物語―宇津保物語首部三巻の巻序と成立―」(『文学』昭和31年9 月)でも、
『玉松』系統などと仰山らしく言っても、一つの写本すらなく、依然として、「吹上(下)」と「内侍のかみ」との間の重複記事、「内侍のかみ」自体の錯乱などの現存諸本に見られる多くの内部矛盾をそのままに包含している。
と批判している。尚、前者の論考については後に大幅に修正され、新たに「『うつほ物語』の成立と改修―俊蔭巻と嵯峨院・菊の宴両巻の問題を糸口に ―」が『源氏物語以前』(笠間書院、平成13年)に収載された。ただし、九大本についての基本的な立場に変更はない。後者についても同題で収められてい る。
また、野口元大「現存うつほ物語の本文について」(『語文』12、昭和29年8月)や、中村忠行「馬陽本『宇津保物語』の来源―山岡明阿・ 細井貞雄の『宇津保物語』研究」(『山辺道』昭和31年3月)なども、九大本が嵯峨院・菊宴両巻の問題以外については錯簡を解消し得ていないこと、その両 巻についても細部に矛盾が残ることを理由に、河野説を批判した。加えて、「(座談会)本文批判をめぐる諸問題―うつぼ物語を中心に―」『文学』(昭和31 年3月)では、河野多麻・小西甚一・武田宗俊・玉井乾介の各氏によって九大本の是非についても議論が交わされたが、河野氏の主張を他の三氏が批判するという形で、平行線に終わっている。この座談会については同じく『文学』の翌4月号において、「「本文批判をめぐる諸問題」の座談会を読んで」として、池田亀 鑑・秋山虔・川崎庸之の三氏が私見を述べている。
同じ年の秋、河野氏の再反論という形で、「うつほ物語九大本考(上)(下)」(『文学』昭和 31年9・11月)が書かれ、後に『うつほ物語異本の研究』(『共立女子大学紀要』第2輯、昭和32年)や、『うつほ物語伝本の研究』(岩波書店、昭和 48年)にまとめられた。氏は、重複の一元化について「こんな煩瑣な手続を以てしても両者を併せることに満足を感じ校訂改削を試みる人があるでせうか」と して偽作説を否定し、依然として残る錯簡等は物語作者の「ありがち」な「不注意」と述べている。
また、昭和32年には、この九大本を底本とし て、河野多麻氏校注による岩波文庫『うつほ物語(一)』が刊行された。ここでも、「板本其他の諸本の錯簡を訂し、原典に近いうつぼ物語の姿を現前させる事 が出来、真淵以来うつぼ研究者を悩ませた嵯峨院と菊宴巻の重複錯簡も氷解するといふ訳である」と従来の主張が繰り返されている。全4冊が企図されたらしい が、第1巻のみ(「吹上下」巻まで)に止まったのは惜しまれる。
さらに、2年後の昭和34年には、前述の如く、「日本古典文学大系」の『宇津保物語』3冊の刊行が開始された。本書の凡例には、
多くの写本板本の類から最も善本と想定した「九大本」を底本にする筈でしたが、監修の先生方からの御注文で延宝五年板本を採りました。
といったいきさつが記されているが、特に巻序などについて九大本に従って改訂されている部分も多い。また、こういった状況の中、翌昭和35年11月 4・5日には天理大学において『うつほ物語』関連の写本・板本の展観が行われている。その目録は「日本文学研究資料叢書」の『平安朝物語 Ⅱ』(有精堂、 昭和49年)に収載されているが、その中に九大本も「78 細井貞雄自筆校本 卅冊」として挙げられている。
しかし、これ以降も九大本を支持する動きは見られなかった。逆に、『玉琴』の、
県居翁の、おしあてに、是はかくありしならんなどいはれしことの、げにしかりと思ひあはせらるゝ事もありて、やく多かるを、ふるものあつかひなりとすさめんは、あさましきわざなり。
という記述から、貞雄は真淵自筆『宇津保物語巻次第考』(天理図書館所蔵)で示された「是は十巻に有残菊宴と九月菊花宴とまぎれてかく成しもの也。 此六巻の此言どもは除くべし」といった示唆に拠って本文を改訂したのではないかとの見解も提出された。実際に、九大本のような本文を持つ写本が一本として 現存しないのはいかにも不審である。加えて、流布本の如き二つの本文が一元化されてゆく過程は「容易に説明でき、又極めてありさうなことでもある」(野口 氏)が、先に見た九大本嵯峨院巻の本文が流布の過程で二つに分裂・混在する様相はたしかに想像し難い。
これらの論争を経て、九大本は、貞雄本人 かあるいは菅原久樹など周辺の人物が重複や錯簡の整理・一元化を試みた改訂本文であるという見解はほぼ共通のものとなったように思われる。その結果、九大 本自体はおろか、それに大きく拠っている「日本古典文学大系」の本文が論文等に引用されるということも現在ではほとんどなくなった。
ただし、このことは逆に言えば、九大本は結局、重複・錯簡問題によってのみしか議論の対象にならなかったということでもある。本文が古形を保つか否かをめぐる、いわば真贋問題にすべて帰着されたのである。これは九大本自身にとっては不幸なことであったと言えよう。
そういった流れとは別の形で、近年新たに江戸英雄「『玉琴』を読む―『うつほ物語』論に向けて―」(『国文学研究資料館紀要』24、平成10年)や「物語 学の精神―『うつほ物語』の享受史から」(『江戸文学』27、平成14年11月)などによって、享受史の立場から貞雄の事績を再考する試みがなされ始め た。『物語の生成と受容』(国文学研究資料館文学形成研究系「平安文学における場面生成研究」プロジェクト編、平成18年3月)所収の氏の基調報告「『う つほ物語』の生成について―いわゆる「重複」本文の問題から―」では、物語の生成と受容という観点から九大本についても言及されている。
その延 長線上において、真贋問題とは別の次元で、どのような過程を経て九大本が成立したのかを、近世『うつほ物語』研究の一階梯として丁寧にたどり直すことも必 要であろう。片桐氏は、「本文それ自体は流布本と比べても全くと言つてもよい程に一致する」と述べるが、細かく吟味すれば現存諸本のみでは説明のつかない 異同箇所も多数散見される。
その一端を示すものとして、例えば、異同はそのまま書き入れられるものと、「れり イ」の如く異本注記「イ」を伴う ものとに分けられ、さらには胡粉で塗抹し、上から重ね書きをした箇所が無数に見受けられる。文字の薄い注記は『校本』に漏れたものもあり、実態の詳細は本 データベースのカラー画像によって確認されたいが、この事実は、九大本は単にある一本の本文を忠実に写し取ったという性格のものではなく、本文の是非を吟 味しながら段階的に成立した校訂本の色彩が強いということを意味していよう。その中には、中村忠行氏の指摘する通り、『玉松』、『玉琴』の成立後に加筆さ れたかと思われる箇所も相当数含まれるのである。
その元となった「古写旧校訂本」の本文がどういった系統のものかは定かでないが、試みに冒頭俊 蔭巻を通覧し、『校本うつほ物語』掲出の諸本異同を参照したところ、大筋では前田本系統よりは浜田本系統の諸本に近いかと思われるが、九大本に「イ」とい う異本注記がある箇所は、他本でも「イ」が存する傾向が見られ、貞雄が参照した本にも元々この注記が存在していた可能性が高い。また、
此山をたづぬる事、はげしき巌、炎いづるまで、
(「日本古典文学大系」第1巻40頁)
の「はげしき」がなかったり、
この木の上下、下の品をば大福徳の木なり。
(同 第1巻42頁)
について、朱書の異本注記でいったん「上中のしな」としたものをさらに塗抹し、「上中下上中のしな」と改めるなど、独自の本文も多く、その由来は不明である。これらをも貞雄らの作為と認めるには、別途検証を要しよう。
さらに、吹上巻においてただ九大本と南葵文庫所蔵本にのみ見られる歌、
いつかまた逢ふべき君にたぐへてぞ春のわかれもをしまるゝかな
あるいは、嵯峨院巻における、
露かゝる籬の菊をみるひとはものやおもふとたれかいふらん
の歌についても、九大本は「ものやおもふとたれかいふらん」という下句を備えているが、前田本などでは「ものやおもふらん」と字足らずである。これ らの独自異文はどういった経緯で生じたものであるのか。河野氏はこれらの例を挙げながら「私は先づその(偽作の)仮想人物を貞雄その人に求める前に、改竄 偽作と考へられるその本文批判が先決ではないかと思ひます」と繰り返し主張したが、真贋問題が先んじて収束した今、九大本について残された問題はいよいよ そういった所にあると言うべきであろう。
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細井貞雄は「詞華堂」という号を持っており、本書にもこの蔵書印が捺してある。また、「新宮城書蔵」の印は、丹鶴叢書で名高い紀州徳川家付家老水野忠央の旧蔵書であったことを示すものである。
ただし、蔵書印に関して河野氏が前述「うつほ物語九大本考」や『うつほ物語異本の研究』に、「音無文庫とあるのは貞雄の蔵印です」と述べているのは誤りである。「音無文庫」とは明治・大正期にかけて、東京大学理学部教授、国立天文台所長などを歴任した寺尾
大正十二年、父が歿した後、九州帝大の図書館長が、態々伊東へ来られ、その蔵書を、詳細に点検して行かれ、是非、新設の法文学 部のために譲り受けたいとの懇望だつたので、「図書館などに一纏めにしておきたい。あれだけあれば、国語国文学の研究は一通り出来るから」との父の遺志通 りに「音無文庫」と銘を打った和漢書は、そつくりそのまゝ九州帝大へ納まつたのである。国文学者にならうとして、若い修業時代にはその機会を得ず、この方 面なら、頭角をあらはすことが出来たらうに、と、いつも残念がつてゐたが、今や、せめて幾分にても若い研究者に便宜を与へることが出来たことに、蔭ながら 満足して貰へるかと思ふ。
と述懐している。文中の「九州帝大の図書館長」は、第2代館長の長壽吉教授(法文学部)である可能性が高い。『(九州帝国大学附属図書館)歳出推算 簿』内国旅費の昭和2年4月23日の項に長壽吉館長の出張として「事務取調ノタメ静岡縣伊東町並ニ東京市ヘ出張旅費概算支出」という記載が見られ、同年5 月11日の項にも「事務取調ノタメ東京市並ニ静岡縣伊東町ヘ出張旅費概算支出ノ処精算ニ依リ不足額追給ヲ要ス」と伊東出張のことが記されている(図書目録 係山根泰志氏の調査による)。理学者としての寺尾氏の足跡については、近時刊行された馬場錬成『物理学校 近代史のなかの理科学生』(中公新書ラクレ、平 成18年)に詳しく、後に九州大学初代総長を務める山川健次郎氏との交流なども紹介されている。また、寺尾氏は前述の東京大学理学部教授、国立天文台所長 などを歴任する傍ら、小説『坊っちゃん』にも主人公の母校として登場する東京物理学校の初代校長をも務めた。この物理学校は現在の東京理科大学の前身であ り、理学関連の氏の蔵書については東京理科大学に「寺尾文庫」として収められているという。
尚、本データベースでは、上述の「九大本」に加え、 附属図書館萩野文庫所蔵の古活字版(2冊)と、文学部国語学国文学研究室所蔵の万治3(1660)年版絵入板本(3冊)を併せて公開する。この二点はいず れも俊蔭巻のみの刊行であるが、特に古活字版については笹淵氏によって第一種に分類される稀覯本である。川瀬一馬『増補古活字版之研究』(The Antiquarian Booksellers Association of Japan 、昭和42年)においても、他には久原文庫所蔵本のみしか報告されていない。諸処で字体が相違する第二種には、早稲田大学図書館所蔵本・龍門文庫所蔵本・ 神宮文庫所蔵本などがある。古活字版の最大の特徴は、前述の『校本うつほ物語』に指摘があるように、
われはいかゞとある。れいする事は九月ばかりよりせぬ。されどなをさあるにこそあらめ
(「日本古典文学大系」第1巻69頁)
に続くべき、「とて、ともかくも覚えずといへば」(同70頁)から「又物はなしやと問へば見えざめりといふ」(同71頁)に至る、およそ千字に及ぶ 脱文が見られる点である。この脱文は「わが宿世」と「免れざりけるを」の間(同72頁)に挿入されている。また、諸本では巻末が「つきづきにぞ」(板本 「つれづれにぞ」)であるのに対し、古活字版では、「其後いとめでたき御あそびおほかりけり」で終わっている点も注目される。古活字版の本文については、 中村忠行「『宇津保物語』古活字本系本文の成立」(『天理大学学報』33、昭和35年12月)に詳しいので参照されたい。