一
この本については、先人にほとんど唯一のしかも最もすぐれた論文がある。阿部俊子氏「大和物語の伝本に就いて」(国語、昭和十三年一月)がそれである。氏はその中で六条家本系統諸本に触れ
「最も重大な資料としてあげなければならないのは正治年間の古写本である」とし、後述の如きその書誌の大体を記され、この本の特質として、
(イ) 修飾語は簡で、文脈がはっきりしている。
(ロ) 本文が、大体に於いて、袖中抄・袋草子等に見られるものと一致するものが多い。(例文省略)
(ハ) 一六九・一七一段の終は他本と同様缺文であり、袖中抄の記述に合致する。
(ニ) 一四八段芦刈の段末は、流布本と著しく異なっている。(要約筆者)
(ホ) 一七三段は無い。
(ヘ) 一六八段、遍昭と小町の贈答歌は、流布本の二首が一首に重なって、「岩の上に苔の衣はただひとへかさねばうとしいざ二人ねん」となっており、しかも、これはこの本の誤写ではないことは、注記に「多本如此」云々とあることで分る。
(ト) 一四二段と一四三段との間に、細字で「宇多院に侍りける人に(中略)、(以下謡)うたののはみゝなし山かよぶことり呼ぶ声をだにこたへざるらん」云々(答歌略)とある。
(チ) 流布本に比し、落丁分以外に歌数が六首も少い点からも、袋草子にいう「和歌二百七十首」本に近いらしい。
(リ) 本文旁注にイ本校合などあり、六条家本系統のものも、少異を有する多本があった(例文省略)
大体以上のようなことを明らかにし、この本の重要性を指摘されたのであった。
ところが、その後、種々の事情で本書の詳細はそれ以上は発表されることなく今日に至ったが、その間阿部氏の『校本大和物語とその研究』(昭和二九年)、あるいは古典大系本解題(昭和三一年)に、右の要旨のみ所在を秘したまま簡単に触れられ、ひき続いて『勝命本大和物語とその研究』(久曽神昇氏、未刊国文資料昭和三二年)や同じく久曽神氏による古典研究叢書、影印本「大和物語勝命本」(汲古書院、昭和四七年)の解説にも、同本の存在を暗示されたにすぎなかった。
昭和五十年八月に田村氏は死去され、その遺志に基いて本書は同年九州大学図書館に寄贈され、昭和五十三年三月には国の重要文化財に指定されたのであった。
二
田村氏の蔵書は、氏自から「支子文庫」と命名され、その一万冊に及ぶ蔵書の大半には「支子文庫」「支子」あるいは「遙山麓舎」「遙青秘符」等の印記があり、すべて、同氏の印記である。
この本が支子文庫に収められた時期は詳しくは分らない。筆者が田村氏御生前に直接伺ったところでは、「福岡の古本屋の店先で」とのことであった。氏は、大正十二年に東大国文学科を卒業、同年末に旧制福岡高等学校に赴任されたので、この本の入手がそれ以降である事はもちろんである。また昭和九年十一月に福岡日々新聞社で開催された「全国図書祭記念大展覧会」なるものの「展観目録」が現存するが、それには、
大和物語 正治二年写下巻一帖、田村専一郎氏蔵
とあるので、その入手は、大正末か昭和初年の頃と察せられるのである。 この本の書誌を略記すると、桝型本、縦一五・五×横一四・二センチメートル。一冊。表紙は金茶地に菊牡丹唐草文様を織り出す金襴緞子。表紙見返しは、上部に遠山海波雲霞描、中部に雲形に金銀砂子を散らし、下部に金泥墨筆による海辺芦屋文様がある。裏表紙見返しは海辺に雲月を描き、右下隅に「竹村氏」の文字がある。おそらくは旧蔵者の署名であろう。本文料紙は鳥の子、雲母引き。墨付七八丁。白紙は巻頭に一丁。字配りは、本文一面八行、一行十六~二〇字前後で、やや大ぶりの強靱な字体である。装釘は綴帖、六くくり。第一くくり四枚、以下六枚、八枚、八枚、七枚、七枚である。第二くくりはもと七枚だったものが、補修の際最上の一枚が脱落して六枚となっている。内容は、下巻、通行一三四段「先帝の御ときにあるみさうしに」以下巻末一七二段までであること、また、右の脱丁分に、一四四段「わたつみと」の歌の下句以下一四五段末まで四面分が含まれること、阿部俊子氏の指摘された通りである。各段頭には、朱の圏点を付するほか、本文中には、朱による句読点、声点があり、本文と同筆の細字による校異、集付、勘注がある。また通行区切りによる段頭に、各段序を記した付箋を貼るが、これは田村氏の筆蹟である。
また本書の書写年代については、従来正治二年写とされてきたのであった。その渕源は右に述べた昭和九年の「展観目録」にあるかと推測するのであるが、これについては訂正を必要としよう。本書の奥書には、下段右の写真に掲げたように、
本云美濃権守入道勝命之以進上之本
察々所令書写也是不似普通本
歟殊可秘々々但注之中人々昇進之
次第者依料帋不足少々略之了
正治二年八月十九日
光阿弥陀仏
とある。文中「察」は「密」と読めば読めなくもないが、字体としては察により近い。この本の孫本に当る(後述)久曽神氏蔵本(下段左の写真)にはあきらかに「蜜」とあり、「密」とは読めなかったらしい。おそらくは田村本の誤写であろう。冒頭に細字で「本云」とあることからみても、本書が正治二年(一二〇〇)写そのものではなく、その転写本であることは疑えない。文化庁の認定では、その転写の年代は鎌倉末期である。他の大和物語諸本中、最古の写本は為家本で弘長二年(一二六二)写であるが、本書は、それと相前後する書写と見ることが出来る。
三
ところで、周知のごとく、本書の奥書全文や、またその勝命本なるものの性格については、先に挙げた久曽神昇氏所蔵本の再度にわたる学界への紹介によって、広く知られている。久曽神本は室町末期写であるが、その奥書には、右の「本云美濃権守」云々の正治二年光阿弥陀仏の奥書をほぼそのまま記した上、つぎに延応二年(一二四〇)と天文七年(一五三八)の両奥書があり、さらに最末の書写者の識語とおぼしい書写年記は、何人かの手によって沫消された跡があるという。それによって、久曽神本は支子本と同系統本であることは、もとより明らかである。しかし、両者がいかなる関係にあるかは、さらにあらためて検討の要があろう。支子本が正治二年本の転写である以上、事は慎重を要しよう。
支子本の奥書の正治と久曽神本の奥書の天文とでは約三〇〇年隔り、その間に奥書で見るかぎりでも、支子本は一度、久曽神本は三度の転写を経ているわけだが、行数は共に一面八行で、しかも、その字体を比較すると、処々に酷似した個所がある。たとえば、一五六段、久本は、
あひそひすあるに(二一七頁一行)
とするが、これは正しくは「あひそひてあるに」であり、支子本では四四ウ十行目の末尾三字が「あひそ」で終り、次行は「ひて○(中白)あるにこの」とある。この補入記号の圏点(墨)が「て」の下部と接着したため、「て」の如き形となり、久本はそれを「す」と誤ったのである。「す」以外の七字は、その字体も正確に一致している。これは支子本が久本の直系の祖父本であることを暗示するものかと思う。しかし、もとよりそれだけで両者の曽祖文-孫の関係をいうわけにはいくまい。以下、その比較を本文、校異、勘注を通じて行うことにする。
まず本文の異同から始める。但し、勘物・書入は除き、それらについては後述する。また漢字・仮名の相違や、「お」「を」、「え」「ゑ」「へ」など仮名遣いの違いも無視した。
支子本 | 久曽神本(洋数字は影印本の頁と行) | ||||
段 |
丁 |
頁行 |
|||
一三六 | 2オ | 心のさかしく | 151・6 | 心さかしく | |
一三七 | 2ウ | いもはらといふ所 | 152・4 | いも〈くら(はら歟)〉といふ所 | |
〃 |
3オ | こかしこ | 152・7 | こゝかしこ | |
* 〃 |
4オ | なかして | 153・2 | なとして | |
一三九 | 4オ | ありときゝ給て | 155・4 | ありきゝ給て | |
〃 |
4ウ | とひ給さりけり | 155・7 | とひ給たりけり | |
一四一 | 9オ | 日々とひ | 163・1 | 日にとひ | |
一四二 | 10オ | うせたうひにけれは | 164・6 | うとたうひにけれは | |
* 〃 |
10ウ | 花をゝりて | 165・3 | 花を折りて〈又(・)〉 | |
〃 |
10ウ | にほひせは | 165・4 | にほひ〈を(せ)〉は | |
一四二 | 11ウ | うせたうひにける | 166・8 | う〈と(せ)〉たうひにける | |
一四三 | 13オ | かなしき〈は(ニ)〉 | 168・8 | かなしきに | |
*一四四 | 13ウ | をふさのむまや | 169・6 | をふせのむまや | |
* 一四六 | 15ウ | かみは〈みな(上下)〉 | 175・5 | かみしもみな | |
一四七 | 17オ | いつれにも | 177・5 | いつれも | |
〃 |
18オ | いますかるもあり | 179・1 | □まするもあり | |
〃 |
18オ | おもひ給ふるやうは | 179・4 | 思ひ給やうは | |
一四七 | 19ウ | くにのつちおはをかさん | 181・3 | くにのつちをはかさむ | |
〃 |
20オ | あ〈みけ(ヒミ)〉れど | 182・3 | あひみれと | |
〃 |
20ウ | わたつうみの | 182・3 | わたつみの | |
〃 |
21ウ | あは〈れ(ム)〉と | 184・1 | あはむと | |
〃 |
21ウ | わが身の〈うち(ソコ)〉を | 185・3 | 我身〈の(な歟)〉そこを | |
〃 |
22オ | えほうし | 186・1 | 〈すをうし(ゑほうし歟)〉 | |
*一四八 | 25オ | けすにし | 189・1 | けすにも | |
〃 |
26ウ | かゝりけれと | 191・6 | かゝ〈りけ(れと)〉れ〈ば(とか)〉 | |
*一四八 | 29ウ | わかおとにゝたり | 195・4 | わかおとこにゝたり | |
一四九 | 35オ | いみしき〈事(モノ)〉なり | 203・4 | いみしきものなり | |
〃 |
35オ | いとあ/あやしき(/ハ改行) | 203・7 | いとあやしき | |
* 〃 |
35ウ | おほくもお | 203・8 | おほくしを | |
一五二 | 38ウ | 心きもお | 208・7 | 心き〈う(も)〉を | |
*一五五 | 43オ | ものなとは | 214・6 | ものなとを | |
一五六 | 45オ | こゝろせかりて | 217・6 | こゝろをかりて | |
一五七 | 47ウ | たゝことはにて | 221・3 | たることはにて | |
〃 |
47ウ | ゐにける | 222・1 | ゐにけり | |
〃 |
48オ | 思たらす | 222・4 | 思たえす | |
一五九 | 49オ | おとゝ申ける | 224・1 | おとゝと申ける | |
〃 |
49オ | ともかくも | 224・4 | とまくも | |
〃 |
49ウ | 〈さた(トシ)〉のへぬれは | 224・8 | としのへぬれは | |
一六一 | 51ウ | いひけり | 229・2 | いひける | |
一六六 | 55ウ | こひし〈き(く)〉は | 233・7 | こひしくは | |
*一六八 | 59ウ | おもひかへして | 241・1 | 思かへし〈○(/\)〉て | |
〃 |
62オ | 〈○(おこにて)〉 と | 244・8 | おこにて | |
〃 |
63オ | きさいの宮 | 246・5 | きさい宮 | |
〃 |
65ウ | かさねはうとし | 248・3 | かさねはうしと | |
〃 |
66オ | もとむれと | 248・8 | もとむれは | |
〃 |
66オ | 大郎君 | 249・3 | 太郎君 | |
〃 |
66オ | いますかりける時〈にこともありけり | 249・4 | いますかりけるに (ヒヒヒヒヒヒヒヒ)〉に | |
一七一 | 75ウ | 中納言の侍行に | 260・1 | 中納言の侍ゆくに | |
一七二 | 77オ | きこし/しめし | 261・3 | きこしめし |
以上の異文の大部分は、各両本の字体を比較することによって、
1 機械的、単純な誤写、脱字によるもの。
2 支子本に加えられた校異を久曽神本の本文に採用したもの。
3 支子本の衍字を省いたもの。
4 属格「の」あるいは引用の「と」を補ったもの。
として説明できるが、*を付した一〇項は、それによっては、やや説明困難の個所であって、久曽神本の親本もしくは、久曽神本の書写者が他本も参考にして、本文を改めた可能性があろう。しかし、全体としてみれば、異同は極めて少く、前述の字体の相似ということもあり、祖父―孫といって不都合はない程度には接近した本文であることは疑えない。
つぎに、本文上両本相違のもっとも大きな点は、久曽神本に見える細字の補入本文である。結論を先にいえば、これらはすべて支子本には存在しない個所であって、久曽神本(以下「久」と記す)が、支子文庫本(以下「支」と記す)以外の本から補ったものである。
もっとも、久の本文右傍の補入は、前に述べた如く、一~二字のものも多いが、今は、数字以上にわたるもののみ左に掲げ、それが現存諸本中代表的なものと比較して、それがいかなる系統の本に近いかを調べてみた。
文中、略称は左の通り。
巫―御巫本 鈴―神田本 家―為家本 氏―為氏本 永―大永本 久―久曽神本 支―支子文庫本
段序 |
久本頁行 |
久本書入 |
一三九 | 156 8 | とてなんゆめこの雪おとすなとつかひにいひてなんなりける。 (注)「なりける」は「奉りける」の誤写であろう。巫鈴 「……つかひに返々いひてつゝしませて」。二条家系統諸本は、右の久本書入にほぼ一致する。 |
一四一 | 160 2 | となん (注)二条家本系統には、「となむ」の形と合せて同文。巫鈴にはない。 |
〃 |
160 3 | もとのめ 二条家本同文。巫鈴共にナシ。 |
〃 |
163 2 | いまはおとこもとの□はかへりなんとて車にのりぬ。 二条家本同文(□は「め」)。巫鈴「今はおとこともとのめとはかへりなむとて車にのりぬ」。 支の独自脱文であろうか。 |
一四一 | 163 6 | あはれかり 二条家諸本「あはれかり」、巫鈴「あはれかりて」。 |
〃 |
163 7 | 車は舟のゆくをみてえいかす 二条家本の家氏永等に一致。巫鈴「ゐるまゝ舟の行をみるとてえいかす」 |
一四二 | 166 7 | さいひける 二条家本では家永「さいりける」、氏が同文補入、天ナシ。巫鈴ナシ。 |
〃 |
166 8 | おとこもせて 二条家本同文、巫鈴ナシ。 |
一四四 | 169 3 | 在中将 諸本アリ。支の独白脱文か |
一四七 | 182 2 | おとこの心にて 家天―同文、氏「おとこの心にかはりて」、永ナシ。巫鈴ナシ。 |
〃 |
187 7 | 此ことの 二条家本同文、鈴「此こと」 |
一四七 | 188 1 | 人もなし 二条家本同文。 |
〃 |
190 1 | なくなく 諸本アリ、支の独自脱文か。 |
一四八 | 195 6 | さりけれは 二条家本、同文。巫鈴ナシ。 |
〃 |
197 6 | ゐて(「たつねて〈こと(ゐて)〉」) 諸本同文。支の独自脱字か。 |
一六八 | 244 6 | かしこき 二条家本「かしこきみかけにならひて」、巫鈴ナシ。 |
以上、久本の補入は、ほとんどすべて二条家本に拠ることが知られるであろう。
また、久本が本文右傍に小書した校異についても、ほぼ同様である。
段 |
頁行 |
|
一四七 | 186 1 | かきりて―諸本に見えない。 |
一五〇 | 208 6 | はかせさせ―二条家本「はかせさせ」、鈴巫「かうしかけさせ」 |
一五三 | 211 3 | にかなふ―家天「にかよふ」、永「にかなふ」、氏・永イ「のまゝに」、巫「のまゝに」。おおむね二条家本によったものらしい。 |
一六八 | 244 1 | 【み〈イニナシ〉《ニ》】さとと―これは異本に「さと」とある旨の注記であるが、二条家本の氏家永「おほむ(御)さとと」。鈴巫「御さとと」。諸本中では天のみ「御(み)」がない。 |
〃 |
246 6 | いらなく―「いらなく」があるのは永氏家天の二条家各本である。 |
〃 |
250 6 | はうして―本文「ちうして」の校異注記である。巫鈴「ちうして」二条家本「はうして」。 |
一六八 | 251 6 | かみ―本文「兵衛尉」の「尉」の校異である。諸本「兵衛のせう」。永「兵衛の〈督(せうイ)〉」。永の如き一本に拠るらしい。 |
以上、久曽神木はおおむね二条家本によって校異を記しているが、少数ながらそうでない 校異も見えるのは注目される。
四
さて、肝腎の支子本にもかなり多くの校異や補入が見える。それはすべて本文と同筆で、鎌倉初期の他の校合資料の存在を物語るものとして、重要な意味をもっている。
今、支子本の書写者が不注意による脱字をあとから自から気付いて補ったと見られるものを省き、他の校合資料の存在を推測させる部分を左に掲げることにする。
番号 |
段序 |
丁表裏 |
支子本 |
頁行 |
久曽神本 |
1 | 一三七 | 3オ | (補入 分ちがき) となんかきつけていにける。 |
153 5 | (改行本文) となんかきつけていにける (注)二条家本同文、巫鈴ナシ |
2 | 一四一 | 6ウ | 〈よしいゑ (或本書ヨシユエ)〉 |
159 3 | よしいへ (注)諸本「よしい〈ゑ(・)〉(へ) |
3 | 一四二 | 10ウ | ほと〈はかり(タニモ)〉 | 165 1 | ほとはかり (注)諸本「ほとはかり」 |
4 | 一四二 | 10ウ | 〈うつらす(カハラヌ)〉 | 165 4 | うつ(カハ)〉らす (注)二条家本は、氏「かはして」以外は「かはらす」。巫鈴「うつらす」 |
5 | 一四二 | 10ウ | な〈けき(カメ)〉 | 165 5 | なけき (注)二条家本「なかめ」巫鈴「うつらす」 |
6 | 一四三 | 13オ | かなしき〈は(ニ)〉 | 166 8 | かなしきに (注)諸本「かなしきは」 |
7 | 一四七 | 18ウ | な〈のみなりけり (ニコソアリケレ)〉 |
180 1 | なのみなりけり (注)二条家本「なのみなりけれ」、 巫鈴「名〈に(・)〉(鈴ナシ)こそ有けれ」 |
8 | 一四七 | 20オ | あ〈みけ(ヒミ〉)れと | 182 3 | あひみれと (注)諸本「あひみれと」 |
9 | 一四七 | 21オ | なくて〈はあら(ヤハテ)〉ん | 183 8 | なくてはあらむ (注)二条家本「なくてやはてむ」。巫鈴「なくてややまむ」 |
10 | 一四七 | 21オ | か〈はり(ナリ)〉て | 184 1 | かはりて (注)諸本「なり(給ひ)て」、 類従本「かはり給て」 |
11 | 一四七 | 21ウ | 身を〈わ(ナ)〉けてあは〈れ(ム)〉と | 184 5 | 身をわけてあはむと (注)諸本「身をなけてあはむと」 |
12 | 一四七 | 21ウ | わか身の〈うち(ソコ)〉を | 185 3 | 我身〈の〉(な歟)そこを (注)諸本「わかみなそこを」 |
13 | 一四八 | 24ウ | としころ〈ヘニ(うち)〉ける | 188 5 | としころへにける (注)二条家本「としころありけり(る)」巫鈴「としころになりにけれは(り)」 |
14 | 一四八 | 26オ | イカテアラナムナトカナシトヲモヒヤリテサテヨメルトモ(本文ナシ、行間細書) | 190 5 | いかてあらんなとかなしと思やりてさてよめる (注)二条家本「いかてあらむなとかなしくてよみける」、巫鈴「いかにしてあらむといと(鈴ナシ)かなしと思やりける」 |
15 | 一四八 | 32オ | 欄外頭注)「或本其女ノカタヘカヘルコトヽソイヒツタヘタルハトアリ」、なお別に「 拾遺ニ返歌あり無此物語如何」と記す。 | 198 | ナシ (注)「あしからしとてこそ人のこそ人の別れけめ」ノ歌、二条家本デハ段末ニ、前後何ノ説明モナク置カレル。巫鈴ハソノ歌ノ後ニ「といふなんこれ返しにあなる」と記す。 |
16 | 一四九 | 35オ | ほかへもさらにいかてつとゐにけりかくて (同筆補入) | 203 1 | (同上文) (注)家永、同上文。氏「…いたりけり…」巫鈴「ほかへもていかてつとゐにけり」 |
17 | 一四九 | 35オ | いみしき〈事(モノ)〉 | 203 3 | いみしきもの (注)諸本「いみしきもの」 |
18 | 一五三 | 40オ | たをりたる〈て(ケ)〉ふ | 211 1 | たをりたるてふ〈てふ〉(けふイ)よし (注)二条家本「たをりたるけふ」、巫「手折〈つる(てふイ)〉哉」、鈴「手折つるかな」 |
19 | 一五七 | 47ウ | 〈この(しか)〉かいふるひ | 221 7 | このかいふるひ (注)二条家本「ものかきふるひ」巫鈴「ものかい(鈴いひ)ふるひ」 |
20 | 一五九 | 49ウ | 〈いな(イロ)〉うも | 224 7 | い〈なうも〉(ろをもイ) (注)諸本「いろをも」、巫イ「いなうも」図イ・抄イ「いなせも」 |
21 | 一五九 | 49ウ | 〈さた(トシ)〉のへぬれは | 224 8 | としのへぬれは (注)二条家本「としのへぬれは」、巫鈴「ほとのへぬれは」 |
22 | 一六〇 | 50ウ | よるせ〈ともなく(カナシク)〉しかそわふなる | 226 7 | よるせともなくしかそ〈わふ(なくイ)〉なる (注)第四句諸本「よるせともなく」、第五句、二条家本「しかそなくなる」、巫「しかそわふなる」鈴「しかそわひぬる」 |
23 | 一六〇 | 50ウ | ぬさと〈しりけ(トリラ)〉む | 227 2 | ぬさとしりけむ (注)二条家本「ぬさとしるらん」、巫鈴「ぬさとしりぬる」、巫イ「ぬさと知らん」 |
24 | 一六五 | 54オ | さるにとはぬひなんありける (同筆補入) |
232 1 | さるにとはぬ日なんありける (注)二条家本同上文。 巫鈴「とひ給はぬ日なんありける」 |
25 | 一六五 | 54オ | きのふ今日とはおもはさりしを(右傍小書) 「伊勢物語業平歌也ケフアス ノコトヽシラスソアリケル」 (私云アルイハ注釈カ) |
232 2 | きのふけふとはおもはさりしを (注)諸本、右同文 |
26 | 一六七 | 56ウ | うき〈な(かイ)〉もそつく | 235 7 | うき〈な(かイ)〉もそつく (注)巫永「うきかもそする」以外、諸本「うきかもそつく」 |
27 | 一六八 | 65ウ | たゝひと〈へ(ツ)〉 | 249 2 | たゝひとへ (注)諸本「たゝひとへ」 |
28 | 一七一 | 73オ | こゝろの〈そら(ウチ)〉に | 256 4 | こゝろの空に (注)諸本「心のうちに」 |
以上をまとめれば、支子本の有する補入、および校異の小書細注を分類すれば、
A 二条家本系と思われるもの 1 5 9 16 18 21 24
B 六条家本と同じもの(支底本が巫鈴と異る)7 15
C 諸本いに共通するもの(支の底本文が独自である)8 10 11 12 17 20 26 28
D 久本以外の諸本に見られない独自のもの
2 3 4 6* 13* 14* 19 22 23 25 27 (*は前にも述べたように久本の本文に採用されたもの)
という結果を得る。この中BCDは支本文の得意の性格を雄弁に物語るものと言えよう。 また本書には、しばしば、校異その他の参考に用いた他の本について触れるところがある。先に引いた一四八段頭注の「或本云」(32ウ)もその一つであるが、他にも、
(イ)如異本者各相違歟如何(一四二段、2ウ)
(ロ)或書云(一六一段、52オ)
(ハ)正本(一六六段、55ウ)
(ニ)多本如此但或本に(一六八段、65ウ)
(ホ)或書云(一六八段、68オ)
(へ)或書云(一六八段、69ウ)
(ト)諸本如此無末詞并哥不審(一六九段、71オ)
(チ)諸本如此無終詞(一七一段、76オ)
などとある。この中、ロハホへは、大和物語以外の書物であるらしいが、イニトチはすべて大和物語本文に関する注であって、その部数は「多本」「諸本」といえる程度の量に達していたのである。ことに(ニ)の一六八段の注記は、本文中の和歌、
いはのうへにこけのころもはたたひとへかさぬはうとしいさふたりねん
に関するもので、「但或本」以下には、本によっては、現存諸本の通り、小町と遍照の贈答歌、
岩の上に旅寝をすればいと寒し苔の衣をわれに貸さなむ
世をそむく苔の衣はただひとへかさねばつらしいざふたり寝む
となっている旨を記している。
右の「多本如此」の文字は、この様な贈答歌を一首に合せた特珠な本文を有する本が鎌倉初期には他にも多くあったことを意味するとは、早く阿部氏の指摘されたことであった。
勝命本の本文が六条家本系統であることは、すでに阿部氏や久曽神氏が、顕昭の古今集注や袖中抄の引用本文と比較することこよって立証されている。しかし、それも一致度の高いのは一四七段・一五四段・一五六段・一六九段(袖中抄引用、中間に三十字あまりの脱字がある)など少数の段にすぎず、その符合度にも各程度の差がある。また前田家蔵清輔本古今集十九が引く大和物語が、「よをいとひこのもとことにたちよれはうつふしそめのあさのけさなり」という、支子本大和物語には缺く一七三段の歌に関係のありそうな歌をのせていることも、六条家本と支子本との関係を考える上で一考を要することである。
勝命本が六条家本系統に属することは間違いないであろうが、平安末に存在した六条家本諸本中の位置づけ如何となれば、もとより容易ではないであろう。高橋正治氏によれば勝命本は六条家本の中でも、巫・鈴とは異る別種のものとされており、支子本に関する右の調査によっても、それは部分的に裏書きされる。支子本の有する校異注記は、その点今後の研究にも示唆するところが大であろう。
五
支子本の勘注に就いて述べる。まず、その項目と行数を列挙しておく。*を付したものは、記事の粗密は問わず久曽神本にも取上げられたものである。
段序 |
注記冒頭の文字 |
一三五段 | 定方第三女(右のおとゝむすめ」ノ注。一行) |
一三七段 | *故兵部卿宮(二行) |
一三九段 | *兵部卿宮(一行) |
〃 |
*承香取女御(一行) |
一四〇段 | *元良親王(「故兵部卿之親王」ノ注一行) |
〃 |
*正三位大納言源昇(「のほるの大納言」ノ注、一行) |
一四一段 | *参議よしすゑ 又よし家(二行) |
一四二段 | 故御息所(一行) |
〃 |
御姉第五者宇多院第五女(「御あね」ノ注、一行) |
〃 |
御母者小八条御息所(三行) |
〃 |
御継母(八行) |
〃 |
*宇多院にはへりける人云々(九行) |
一四七段 | 均子内親王云々(「女一のみこ」ノ注、五行) |
〃 |
兵衛命婦(二行) |
〃 |
伊勢物語云(三行) |
〃 |
万葉集三菟原処女墓歌(二十一行) |
一四八段 | *拾遺ニ返歌あり(頭注・旁注合セテ五行) |
一五一段 | *奈良帝(六行) |
一五二段 | *これも聖武天皇也(一行) |
一五三段 | 国史にいはく(二十二行) |
一五五段 | 古今仮名序云(九行) |
一五九段 | *染殿内侍(二行) |
〃 |
*右大臣源能有(二行) |
一六一段 | 古今第十七雑一(大原野行幸ノコト、一一行) |
〃 |
*業平集には(五行) |
一六五段 | 水尾天皇(三行) |
〃 |
弁御息所(二行) |
一六六段 | 伊勢語ニハ(九行) |
一六八段 | 仁明天皇(一行) |
〃 |
深草天皇(七行) |
〃 |
良少将(一九行) |
〃 |
小野小町(五行) |
〃 |
清水寺(一八行) |
〃 |
本願系図(四行) |
〃 |
遍照僧正二郎(一〇行) |
〃 |
素性非僧都也(一一行) |
一六九段 | *諸本如此無末詞并歌不審(一行) |
一七〇段 | 参議(中略)藤原伊衡(三行) |
〃 |
兵衛命婦(一〇行) |
〃 |
式部卿宮(四行) |
一七一段 | *諸本如此無終詞(一行) |
〃 |
右大臣(五行) |
〃 |
式部卿宮(三行) |
〃 |
女房大和(一行) |
〃 |
広幡中納言(一二行) |
一七二段 | *黒主(三行) |
〃 |
*亭子院(五行) |
以上は、主として、人物、史実考証に類する勘注四七項目、計二六一行であるが、それ以外に、物語中の和歌に関する集付などの形による出典考証がある。今、歌の初旬と、その集付を示せば、
一三九段 | 人をとく-後撰恋四 |
一四二段 | ありはてぬ-古今定文歌也、古今十六雑部 |
一四七段 | すみわひぬ-伊勢物語 |
一四九段 | 風ふけは古今十八雑部題読人不知 |
一五一段 | たつたかはもみちはなかる-古今秋下 たつたかはもみちみたれて-古今秋下 |
一五四段 | たかみそき-古今十八読人不知無詞 たつたやま-古今ニ此返歌ナシ |
一五五段 | あさかやま-此歌在万葉集葛城王作也 |
一五六段 | 我心なくさめかねつ-古今第十七題読人不知 |
一六〇段 | あきはきを-ないし中将のもとへよみてやれりける。此歌業平集ニハ、ウヱシウヱハ秋ナキトキヤカレサラムトイフ歌ノカヘシナリ(三行) 秋野を-後撰五秋上。詞者七月許ニ女ノモトヨリヲコセテ侍ケル。返業平、秋ハキヲイロトルカセハフキヌラムコヽロハカレシクサハナラネハ(三行) |
一六一段 | おもひあらは-伊勢物語 おほはらや-古今第十七伊勢物語ニハ 在中将近衛府之時云々 |
一六二段 | わすれ草-伊勢物語詞云々、ムカシヲトコ弘徽殿ノマヘヲワタリケルハアルヤムコトナキ御方ヨリシノフ草ヲコレヲワスレクサトモイフカトテイタサセタマヘリケレハ(三行) |
一六三段 | *うゑしうゑは-古今ニハヒトノ前栽ニキクニユヒツケテ業平ウヱケリトアリ 返歌ハ皇后ノナリ(二行) |
一六四段 | あやめかり-伊勢物語 |
一六五段 | つひにゆく-古今第十六哀、伊勢物語業平歌也。(二行) |
一六六段 | みすもあらす-(要約)伊勢物語・業平集・業平自筆朱雀院塗籠本伊勢物語・古今集・「正本」ナド引用 (九行) |
一六七段 | みな人は-古今十六僧正遍照 |
〃 |
かきりなく-古今八、別離読人不知 *いはのうへに-多本如此但或本にみそひつかし給へとて/いはのうへにたひねをすれはいとさむしこけのころもをわれにかさなんとて心みにいひやりたりけれは、返事にこけのころはたゝ一とあり 後撰十七此歌小町也いはのうへにたひねをすれはいとさむし……返歌遍照/よをそむくこけのころもはたゝひとつ……(八行) |
以上、和歌の集付や考証は二一項目、四六行であるが、久曽神木ではほとんどすべて省略されている。
以上、この和歌の考証と先の史実等の考証とを合計すれば、本書の勘注総計は六八項目、三〇七行に達するが、その中、久曽神本が、多少とも受け継いでいるものは、わずかに*を付けた一九項目にすぎない。しかも、その中多くは、支子本に比し節略の極めて多いもので、行数は全部で三十行に満たない。逆にいえば支子本の勘注は久曽神本の十倍の量に達する。
先に記したように、本書の奥書には、紙が不足したため、「人々之昇進之次第」は少々省略したとある。とすれば勝命本原本は本書よりもさらに大部のものであり、殊に官歴などは、記録を駆使して、詳細なものだったらしい。原本の勘物が、量的にもまた質的にも必ずや貴重なものであったことが察せられよう。
六
以下に支子本の勘注の全文を翻字し、その解説を加える。
翻字の要領は左の通りである。
一、表記は原文に忠実を期したが、標出語頭の圏点は省いた。また、本文中の朱の句読点には誤りもあり、それらは無視した。文中に施した句読点は、おおむね私意によるものである。
二、久曽神本にも所出の部分は〔 〕で示した。
三、割注の部分は便宜上、一行としたが、場合により、活字のポイントを落した。
四、異態文字は通行文字に直したが、小論の末尾に、その一覧表を掲げることとした。
五、丁数およびその表裏を、たとえば……」(28オ)・」(30ウ)等のごとく記した。」は丁末、それのないのは、丁の途中である。
一三五段「右のおとゝむすめ」ノ傍注。
定方第三女 乳母子十三人也(1ウ)
一三七段 段末勘注
〔故兵部卿宮 致平村上第三子母更衣正妃四品兵部卿 年月日為親王 天元四年五月十一日出家住 三井寺、長久二年二月廿(久「十」)四日薨[年九十三]〕(3オ)
一三九段 段末勘注
〔《兵部(元良)》卿宮見上之 承香殿女御見上〕(5オ)(注、久傍注「元良」ナシ)
一四〇段 段頭「故兵部卿親王」
元良親王(5オ)
一四〇段 段末勘注
〔故兵部卿親王 元良親王見上之/[正三]位大納言源昇 左大臣従一位融二男〕(6ウ)
一四一段 段末勘注
参議よしすゑ 又よし家(9ウ)
一四二段 段末勘注
故御息所者 宇多天皇女歟 追可考
[加異本者各相違歟如何]
御姉第五者 宇多院第五女依子内親王是也」(11ウ)
御母者小八条御息所 宇多天皇更衣、従五位上源貞子、民部卿昇大娘 承平六年七月七日薨、年四十二、号鬘宮御継母者 贈太上大臣菅原朝臣女子、宇多天皇女御、源氏順子母
太政大臣藤原基経二女、温子、母四品人康親王女、仁和四年十月六日初入内、即九日為女御、寛平九年七月廿六
日為皇太夫人[年廿六] 延喜五年五月出家、七年六月八日崩[年卅六]、号七条后。
均子内親王 柏子内親王母
贈皇后藤原胤子内大臣高藤女。
左大臣平女 雅明親王行明親王母 京極御息所
已上四人之間有疑
後撰恋第六云
宇多院にはへりける人にせうそくつかはしける」(12オ) 返事もせさりけれは よみ人しらす
うたのゝはみゝなしやまかよふことり よふこゑをたにこたへさるらんかへし 宇多院女五宮
みゝなしのやまならねともよふことり なにかはきかむときならぬねを(12ウ)
一四七段「女一のみこ」ノ脚注
均子内親王。宇多皇女、母七条后温子、配敦〈房(ママ)〉親王、無品 延木十年二月廿五日薨。 又伊尹女、贈皇后懐子者花山法皇并女一宮女二宮母也、女二宮者円融院女御、号出(注「火」ノ 誤)宮是也。然而件一宮時代不相叶、為散両方之疑殆注之(20ウ)
一四七段「兵衛命婦」ノ脚注
本院兵衛歟 重明親王女 在後撰恋三 □□贈太政大臣伊尹、右大臣顕忠家女房」(20ウ)
一四七段 段末勘注
伊勢語云 ムカシオトコツノクニムハラノコホリニスメケル女ニカヨヒケルニ女コノタ
ヒカヘリナハヨニコシトヲモヘリケルニ ヲトコ
アシヘヨリミチクルシホノイヤマシニ君ニ心ヲオモヒマスカナ
万葉集云 菟原処女墓歌二首并短歌
葦屋之《菟(ヒ)》原名負処女之 八年児之片生乃時従小枝(「放」ノ誤カ)尓鬘多久麻弖尓 並居家尓毛不所見 虚木綿乃牢」(23ウ) 而座在者 見而師香跡悒憤時之 垣廬成人之誂 時 智奴
〈壮士(ヲトコ)〉宇奈比壮士乃 廬八燎須酒師競 相結婚為家類時者 焼太刀乃手潁押祢利
白檀弓靱取負而 入水火尓毛将入跡 立向競(「時」脱カ)尓 吾妹子之母尓語久 倭〈文手纏(シツタマキ)〉賤吾之故 大夫之荒争見者 雖生応合有乎 完(「宍」ノ誤カ)串呂黄泉尓将待跡 隠沼乃下延置而 打歎妹之去者 〈血奴壮士(チヌノヲトコ)〉其夜夢見 〈取次寸(トリツヽキ)〉去祁礼姿 後有菟原壮士伊 仰天叫於良妣 {足+昆}地牙喫建怒而如己男尓負而者不有跡 懸佩之小劔取佩 冬{艸+叙}蕷都良尋去祁礼姿 親族共射帰集 永代尓標将為跡 遐代而語将継常 処女墓中尓造置 壮士墓此方彼方二 造置有〈双(・)〉(「故」ノ誤カ)縁聞而 雖不知新喪之如毛 哭泣鶴鴨 返歌」(24オ)
〈葦屋之宇奈比処女之奥槨乎(アシノヤノウナヒヲトメノオキツヘヲ)〉 〈往来跡見者哭耳之所泣(ユキクトミレナキノミソナク)〉 〈墓上之木枝靡有如聞(ツカノウヘノコノエタナビキキクカコト)〉 〈棟(チ)〉(「陳」ノ誤カ)〈奴壮士尓依家良信母(ヌノヲトコニヨレリニケラシモ)〉
右二首高橋連虫麿之歌集中出云々(24ウ)
一四八段 本文中「きみなくてあしかりけりと」ノ歌ト「あしからしとてこそ人の」ノ歌ヲ並ベテ記セル行間傍注
拾遺に返歌あり 無此物語如何(32オ)
同段右条、「あしからしとてこそ」ノ歌の欄外頭注。
或本云女ノカヘリコト、ヽソイヒツタヘタルハトアリ(32オ)
一五一段 段末勘注
〔奈良帝 聖武天皇也〕諱〈天璽国押開豊桜彦天皇(アメミルクニヲシアケトヨサクラヒト)〉、又号雨帝、又号平城太上天皇 〈文徳(ママ)〉天皇太子 母右大臣不比等女 元年甲子二月四日即位[廿四] 在位廿五年御難波宮之後遷平城宮 天平勝宝八年五月二日崩[五十] 陵佐保山南。人丸、以年々叙位除目尋其昇進 更無所見云々 但度々行幸従駕在位人歟 委見古今目録之(38オ)
一五二段 段末勘注
〔これも聖武天皇也〕(40オ)
一五三段 段末勘注
国史にいはく、大同の御時おほしまにおはしまして御みあそひたまふときに、よつのく らゐよりかみつかたふちはかまをかさす、そのときにうたよみていはく
みな人のそのかにゝほふふちはかま〈……(ママ)〉
上和云曰
天和御答歌
おり人の心のまゝにふちはかま〈……(ママ)〉
然者此奈良帝者大同帝也
日本紀云、大同二年九月乙亥幸泉苑、琴歌間奏四位上共挿蘭花 于時皇太弟歌曰者
又かへらせ給けるに
はきのはなをるらんおのゝつゆしもに ぬれつゝゆかんよは」(40ウ)ふけぬとも平城初有童謡曰
おほみやにたゝにむかへるやへのさか いたくなふみそつちにはありとも
有識者以為天皇登祚之徴也
大同三年九月戊戌幸神泉苑 有勅云々
従五位下平朝臣賀是麿作和歌曰
いかにふく風にあれはかおほしまのをはなかすゑをふきむすひたる
皇帝歓悦即授従五位上
是以思之此奈良帝一定大同也(41オ)
一五四段「たつたやま」ノ歌ノ頭注
古今ニ此返歌ナシ(42オ)
一五五段「あさかやま」ノ歌ノ頭注
此歌在万葉集 葛城王作也(43ウ)
一五五段 段末勘注
古今仮名序云 あさかやまのことはうねへのたはふれよりよみてとあり」(44オ)
又云 かつらきのおほきみをみちのおくへつかはしたりけるに、くにのつかさ事おろそかなりとてまうけなとしたりけれと、すさましかりけれは、うねめなりける女のかはらけとりてよめるなり、これにそおほ君心とけにけるとあり
葛城王者橘左大臣諸兄之本名也(44ウ)
一五九段 段末勘注
染殿内侍、典侍藤原因香朝臣、寛平九年十一月廿九日従四位下掌侍母尼敬信也。
右大臣源能有 文徳天皇第一子 母伴氏 寛平九年六月八日薨[五十三] 贈正一位号近院大臣 (49ウ)
一六〇段 段頭「おなしないし」ノ傍注
是も因香也(49ウ)
同段「あきはきを」ノ歌ノ傍注。
此歌業平集ニハ ウヱシウヱハ秋ナキトキヤカレサラムトイフ歌ノカヘシナリ(49ウ)
同段「秋野を」ノ歌ノ傍注
後撰五秋上、詞云七月許ニ女ノモトヨリヲコセテ侍ケル
返業平
秋ハキヲイロトルカセハフキヌラムコヽロハカレシクサハナラネハ(50オ)
一六一段「おほはらや」ノ歌ノ傍注
古今巻第十七 伊勢物語ニハ 在中将兵衛府之時云々(51ウ)
一六一段 段末勘注。
古今第十七雑一云、二条后また東宮の御息所と申けるときと云々、而清和天皇の東宮者一歳にて立太子、九歳にて即位也。幼稚之条如何。
皇代記云、仁明天皇夫人順子貞観三年二月廿五日参向大原野、奉幣、同廿五日出家、于時五十三者、同六年正月〈大(ママ)〉皇后、同十三年九月廿八日崩、号五条后。
又或書云、貞観三年辛巳二月廿五日有大原」(52オ)野行啓、是二条后高子也、于時歳廿、業平 卅七従五位下、未為兵衛佐、同五年癸未補兵衛佐也、尤有疑。(52ウ)
一六二段「わすれ草」ノ歌ノ傍注
伊勢物語詞云、ムカシヲトコ弘徽殿ノマヘヲワタリケレハ アルヤムコトナキ御方ヨリ、シノフ草ヲコレヲワスレク」(52ウ)サトモイフカトテイタサセタマヘリケレハ(53オ)
一六三段 段末勘注
〔業平集にはかへしあり」(53オ)
秋はきに色とる風ははやくとも こゝろはかれしくさはならねは 皇后御返歌也〕
古今ニハヒトノ前栽ニキクニユヒツケテ業平ウヱケリトアリ 返歌ハ皇后ノナリ(53ウ)
一六五段 段末「つひにゆく」ノ歌ノ傍注
伊勢物語業平歌也 ケフアスノコトヽシラスソアリケル(54ウ)
同段 段末勘注
水尾天皇 諱惟仁、文徳天皇第四子、母大皇太后宮藤明子太政大臣良房女。天慶三年五月八日出家、法名素真、同四年二月四日崩円覚寺[卅一]」(54ウ)
弁御息所 在原行〈幸(ママ)〉女 更衣弁御息所、貞数親王(「母」脱カ)也。左大弁任ハ不見之(55オ)
一六六段 段末勘注
伊勢語ニハ、右近馬場ノテツカヒノ日 ムカヒニ夕テリケル車ノシタスタレノアキタリケルヨリ女ノカホノスキタリケレハ マタノ日中将業平ナリケル人ノトアリ
業平集云、右近馬場ノテツカヒミ侍 ムカヒニタテリケル車ノ」(55オ)シタスタレノハサマヨリ、ハツカニ女ノミエケレハトアリ 業平自筆ノ伊勢語ノ朱雀院ノヌリコメニアリケルニモテツカヒノ日トソアリケル
古今ニハ右近馬場ノヒヲリノ曰トアル本アリ 但正本ニハテツカヒノ日ムカヒニタテリケル車ト アリ(55ウ)
一六六段「みもみすも」ノ歌ノアト。文字ハ本文卜同大デ、本文化シテイル。
〔古今には返歌云
しるしらすなにかあやなくわきていはん」(55ウ)おもひのみこそしるへなりけれとなん侍りける〕(56オ)
一六八段 段頭「ふかくさの御かと」ノ傍注
仁明天皇
一六八段ノ途中、「ありしところにもまたなくなりにけり」ノアト。勘注
深草天皇、
仁明天皇諱正良、嵯峨天皇第二子、母太皇大后橘嘉智子、内舎人贈太政大臣正一位清友女、天長十年二月廿八日乙酉受禅、三月六日癸巳即位、在位十七年、春秋廿四即位、嘉祥三年三月十九日落飾入道、廿一日巳亥崩清涼殿[年四十一]良少将出家法名遍照」(63ウ)
嘉祥三年三月廿一日帝崩庚子、定御喪諸司為装束司、丙午出家[五十五]、為僧、天皇寵臣也、崩後哀慕無他、自帰仏理以求報恩、時人愍
国史云、貞観十一年二月十六日甲寅請六十僧於大極殿 限三日転読大般若経、詔授遍照〈法服(ママ)〉和尚位
仁和元年十月廿二日任僧正、十二月十八日於仁寿殿七十賀、太政大臣左右大臣預此座
三代実録出〈雑(ママ)〉類略説云、僧正遍照仁和二年三月十四日賜食邑百戸、聴駕輦出入宮門、同年」(64オ)六月十四日壬戊(「抗」脱カ)表辞封邑、有勅不許。仁和三年七月廿七日戊戌元慶寺座主僧正法印大和尚位、遍照奏云、延暦寺僧伝灯大法師位最円年六十三、於遍照辺受学両部大法既訖(「請」脱カ)授真言伝法阿闍梨位、勅聴之、寛平六年正月十九日卒[七十六] 于時為元慶寺座主之故号花山僧正
慈覚大師之弟子、安然和尚之師匠也(64ウ)
一六八段 「いはのうへに」ノ歌ノ左注
〔多本如此、但或本にみそ〈ひ(ママ)〉つかし給へと、
いはのうへにたひねをすれはいとさむしこけのころもをわれにかさなん とて心みにいひやりたりけれは、返事にこけのころもはたゝ一とあり
後撰十七此歌小町也、いはのうへにたひねをすれはいとさむし〈……(ママ)〉返歌遍照〕よをそむくこけのころもはたゝひとつ〈……(ママ)〉」(65ウ)
一六八段 「これをもほうしになしてけりかくてなんおこなひける」ノアト、「おりつれは」ノ歌ノ前
小野小町、出羽国郡司女 仁明清和両代之間人云々、或云衣通姫之女云々、是僻言歟。
後撰ニハ いそのかみてらにてとあり大納〈言(ママ)〉語にははつせてらとあり
清水寺、往時有一聖人、名曰延鎮、蓋報恩大師入室之弟子也、六時三昧之行年流、興法利生之願日積」(66ウ)
宝亀九年四月八日斗藪之次、尋到勝覚、是則山城国愛宕八坂郷東山之麓也、谿辺有草{艸+庵}之居、奄中有華鎮之人、延鎮聖人問云、居士住此経幾年乎、名性為語年齢不審也、居士之名即行叡、性有隠遁心、念大悲観音、口誦千手真言、居此地年久、齢及二百、言談未畢居士忽失《度(ヒ)》、爰大納言坂上卿遊{犬+葛}之次、欲飲冷水、尋得飛泉、納言延鎮殊以帰依、卜件地之建伽藍之由、言約已了、延暦十七年七月二日延鎮聖人与坂大将軍同心合力始奉造金色十一面四十手観世音苫薩像所安置也、号清水寺、本名北観音寺、願主正二位行大納言兼兵部卿右近衛大将陸奥出羽按察使坂上宿祢
〈田麿(ママ)〉、同廿四年奏清水寺地永以施入、大同」(67オ)〈同(ママ)〉二年亜将家室三善命〈婦(ママ)〉懐後〈寝庭(ママ)〉、建立是仏堂矣。
本願系図
坂上宿祢田村麿、正四位上犬養孫従三位苅田麿男、弘仁元年九月十日任大納言[五十三]右近大将、二年十二月廿三日薨[五十四]
遍照僧正二郎
俗官左近将監、清和殿上人、行向父入道許之間、法師子俗称無由、令押出家云々、法名素性。昌泰元年宮滝遊覧記云、号良因朝臣、取住所之名也[石上寺〔称桧・〔蕁]数日前駆之間、献和歌免暇帰寺之日給御衣細馬、数盃之後忽感思賜春御衣、騎御馬向山直者。
延木六年二月廿六日御記云、於〈龍(ママ)〉芳舎書御屏風。同九年十月二日御記云、於御前書御屏風、左中将定方給〈楢(ママ)〉献歌間給禄、赤絹綿御」(67ウ)馬等之。或書云、素性阿闍梨云々(68オ)
一六八段 段末勘注
素性非僧都也、遍照嫡男僧都由性也、寛平八年行幸雲林院之日、大納言源朝臣奉勅」(69オ)宣命、由性大法師為権律師、弘延由性両法師給〈座(ママ)〉者一人、共起稽首挙声歓喜者。系図云、由性雲林院別当、遍照僧正俗時子也、少僧都云々
或書云、寛平法皇幸嵯峨院[〈大学(ママ)〉寺] 菅根序云、于時左丞相藤公談前宮往行、兵部尚書奏絲竹管絃、権律師由性献風流艶藻、左尚書発昭奏瓊章玉韵、是皆当時之衆、各尽其能也云々(69ウ)
一六九段 段末勘注
〔諸本如此、無末詞并歌、不審〕(71オ)
一七〇段 段末勘注
参議正四位下左大弁左兵衛督藤原伊衡 左中将従四位上敏行三男、母従五位下多治弟梶女、天慶元年十二月十六日薨[六十三]
兵衛命婦 重明親王女云々 本院兵衛[(四字旁注)]、右大臣従二位、自延木至于康保現存、左兵衛督顕忠卿家女房
兼茂朝臣女兵衛 或兵衛督 自寛平至于延木現存、兼茂事也、与陽成院皇子元良親王贈答」(72オ)
峯茂女兵衛 已上三人後撰作者
〈藤原高経女兵衛(古今作者)〉 藤忠房家女房
高経者県大臣長男 自貞観至于寛平現存
已上四人各無命婦之字、四人之中高経女歟、年紀相叶之故也
式部卿宮 重明親王 本名持保 母大納言源昇女也、三品式部卿延喜八年四月五日為親王[年三]」(72ウ)、天暦八年九月十四日薨[四十九](73オ)
一七一段 段頭「左のおとゝ」の傍注。
或左大将(73オ)
一七一段 段末勘注
〔諸本如此無終詞〕
左大臣 藤原実頼 貞信公一男、母宇多天皇女源氏号菅原公、{斤+頁}子、康保四年十二月十三日太政大臣[六十八]、天禄元年五月十八日薨[七十一]贈正一位、謚号清慎公小野宮殿
式部卿宮 為平親王 村上第四皇子、母皇后藤安子一品式部卿親王、寛弘七年 月 日 出家[五十九]
女房大和 [不分明之]
広幡中納言 源庶明、寛平天皇第二皇子三品斎世親王二男、母山城守橘公広女、天暦九年五月廿日薨五十三 号広幡中納言、広幡者」(76オ)所之名也、所謂今之祇{□}林寺跡云々、庶明女者村上御息所更衣〈釘(ママ)〉子也、理子内親王・盛子内親王母、号広幡御息所云々
弘仁天皇子弘モ号広幡大納言、然而各別也、皇代記云、仁寿四年十月廿六日甲子御楔鴨川、出明陽門、指東至京極折橋北上御坐、御斎所者広幡社司下宮小社中者、広幡社何所乎、若祇{□}林寺辺之社歟(76ウ)
一七二段 段末勘注
〔黒主 清和・陽成・光孝・宇多之間人歟、又延喜大嘗会歌作者也 又後撰云、於唐崎勤祓預禄、陰陽師歟
亭子院 昌泰二年十月十四日出家、承平元年七月九日崩、石山御幸度々云々、其間近江守可考之、此近江守平中興歟、延木十五年正月十二日任之故也、廿二年遷美乃権守也、亭子院并黒主等時代相叶也〕」(78オ)
七
まず、支子本勘注に用いられた書目の明記されたものすべてを掲出順に列挙してみよう。漢数字は段序、洋数字は丁数。
後 撰 集-一四二(12オ)・一六八(65ウ・66ウ)・一七二(78オ)
伊勢物語 -一四七(18ウ・23ウ)・一六一(51ウ)・一六二(52ウ)・一六六(55オ)
万 葉 集-一四七(23ウ)・一五五(43ウ)
拾 遺 集-一四八(32オ)
古〈今(ママ)〉目録-一五二(38オ)
国 史-一五三(40ウ)・一六八(64オ)
日 本 紀-一五三(40ウ)
古今仮名序-一五五(44オ)
皇 代 記-一六一(52オ)・一七一(76ウ)
或 書-一六一(52オ)・一六九(69ウ)
業 平 集-一六三(53オ)・一六六(55オ)
古 今 集-一六一(52オ)・一六三(53ウ)・一六六(55ウ)
正 本-一六六(55ウ)
三代実録 -一六八(64オ)
雑類略説 -一六八(64ウ)
大納〈言(ママ)〉語-一六八(66ウ)
本願系図 -一六八(67ウ)
系 図-一六八(69ウ)
宮滝遊覧記-一六八(67ウ)
御 記-一六八(67ウ)
菅 根 序-一六八(69ウ)
以下右の書目を順次に検討してゆく。
後撰集-12オの「うたのゝは」「みゝなしの」の贈答歌は、天福本巻十四、一〇三五・一〇三六番である。但し、詞書、歌詞、作者名に多少の異同がある。本書勘注では、詞書「せさりけれは」とあるが、天福本・貞応本・中院本・堀河本等すべて「侍らさりけれは」であり、歌詞の「よふこゑを」は天・中・貞・堀、いずれも「よふこゑに」である。所引後撰集は、やや特異な本文を有していたといえるだろう。
一七二段(78オ)の後撰集による黒主の注は、実は古今集目録に「(前略)黒主者読延喜大嘗会歌、寛平頃之人歟、如後撰第十五巻者、陰陽師歟、於唐崎預秡之纒頭之故也」とあるのに従ったものである。
伊勢物語-一四七段の二項の中、18ウは右の勘注一覧としては掲げなかったもので、「すみわびぬ」の歌の肩に「伊勢物語」と典拠を示したものだが、この歌は現存伊勢物語諸本には見当らない。もし、この歌のある伊勢物語一本が当時存在したとするなら、かなり大きな問題である。他の一項23ウの「ムカシオトコ」云々の伊勢物語本文は、天福本三十三段であるが、流布本とはかなり大きく相違する。ことに「スミケル女ニ」の六文字は、塗籠本の独自異文である。しかしそれと完全に一致するわけではなく、本書の「おもへりけるにをとこあしへより」の部分は、定家本系統では、「おもへるけしきなれはおとこあしへより」とあり、塗籠本系統本では、「おもへるけしきをみて女のうらみけれはあしまより」と各異る。
一六一段(51ウ)の「伊勢物語ニハ在中将兵衛府ノ時云々」の傍注も問題である。現存伊勢物語諸本はすべて「近衛府」で、「兵衛府」の本文を採る本はない。本書のこの「兵」の字体は、「兵」か「近」かやや決しにくい感もあるが、後文に、注者の意見として、業平が貞観三年にはまだ「兵衛佐」ではなかったが、同五年に「兵衛佐」となったと、「兵衛」の文字を重視しているので、ここもそのように読むべきであろう。念のため業平の官歴に徴すると、古今集目録では、貞観四年四月に左兵衛権佐(三十六人歌仙伝「兵衛佐」)、同六年三月右近権少将(歌仙伝「右近衛少将」)に各任ぜられていて、官{耳+ム}の上からは右の記事を誤とも云えない。少くとも、当時にあって、こうした本文の伊勢物語一本があり得たとは云えるのである。
次に、一六二段(52ウ)。この伊勢物語百段の本文も現存諸本とは大異がある。勘注は「弘徽殿ノマヘヲ」であるが、伊勢物語諸本では、塗籠本のみがこれに同じで、他はすべて「後凉殿のはさま」である。さりとてまた一方勘注の「ワタリケレハ」は流布本に一致し、塗籠本は「わたりたりけれは」であり、勘注が「ヤムコトナキ御方ヨリ」とするのに対して、諸本すべて「やむことなき人の御つほねより」である。勘注は塗籠本にやや近いようではあるが、それでもかなりの距離はあるようだ。
一六六段(55オ)、ここに引く「右近馬場」云々は天福本九九段であるが、勘注本文は現存諸本とは大きく異る。まず「テツカヒノ日」とあるが、これは、諸本例外なく「ひをりの日」である。しかし、後文には「業平自筆ノ伊勢語ノ朱雀院ノヌリコメニアリケルニモテツカヒノ日トソアリケル」とあって、当時はその本文をもつ塗籠本があったらしい。以下現存諸本は一致して
たてたりける車に女のかほのしたすたれよりほのかにみえけれは中将なりけるおとこの
とある。前掲本書の勘注本文と比較すれば、その出入りの大であることが察せられよう。必ずしも、現存本文の簡略化とのみいえないところに、本書所引伊勢物語の本文系統的な意味を考えざるを得ない。
また、本条冒頭に「右近馬場」とあるが、これにつき、顕昭の古今集注巻十一の記述が参考になる。
伊勢物語ノ中ニハ事外二歌次第モカハリ広略ハベル中ニ、普通本トオボシキニハ左近ノムマバノヒヲリノ日トカキテ中将ナリケルオトコトカケリ 普通トタガヒタル本ニハ右近ノ馬場ノテツガヒノヒトカキテ中将ナリケル人トカケリ
顕昭のいう「普通本トオボシキ」本の「左近の馬場のひをりの日」は現存広本系諸本の本文であり、その他、右によれば、六条家の顕昭にとっては「左近」が通常で「右近」とあるのは「普通トタガヒタル本」であった。しかるにまた他の個所で、顕昭は
業平ガテヅカラカミヤガミニカケル伊勢物語ノ朱雀院ノヌリゴメニアリケルニハタヾ右近ノ馬場ノ日ムカヒニタテリケル女ノ(中略)トゾカケル
とも云っており、これは範兼の和歌童蒙抄の説をそのまま受けたものであるが、これでみれば、右の「普通トタガヒタル」本とは塗籠本をさすことになる。前期勘注による当時の塗籠本の記述と合せれば、本書の引く「右近馬場ノテツカヒノ日」の本文を持つ伊勢物語は、当時の六条家本系統とは全く異り、朱雀院塗籠本の系統によるものと見てよいが、しかし、それは「右近の馬場のひをりの日」とある現存の塗籠本ともいちじるしく異るものであることもまた明らかである。この「ひをり」の本文については、つとに福井貞助氏『伊勢物語生成考』一八三頁以下にも詳論があるところで、この勘注もその問題に一石を投ずるものといえよう。
万葉集-一四七段(23ウ)は、万葉集巻九の有名な長歌と反歌である。長歌の文字は、古典大系本底本の西本願寺本と比較して、誤脱・異字が一字ずつ四箇所に過ぎず、ほとんど変りがない。しかし、本書の反歌(「返歌」と記す)二首の訓は、以下の如くである。平仮名の校異は西本願寺本の訓。・はナシ。
アシノヤノウナヒヲトメノオ〈キツヘ(くつき)〉ニユキクトミ〈レ(て)〉ハ〈ナキノミソナク(ねのみしなかゆ)〉
〈ツ(は)〉カノウヘノコノヱ〈タ(・)〉ナヒ〈キ(けり)〉キ〈クカ(きし)〉コトチヌノヲトコニ〈○(し〉)ヨ〈レリ(るへ)〉〈ニ(・)〉ケラシモ
後の歌の結句第二字目には本文に「倍」が缺けており、また第二句の「有」を訓に無視するなど不審もあるが、現存本の中では、古葉略類聚抄の訓に近いといえる。一五五段(43ウ)については、問題はないので省く。
拾遺集-一四八段(32オ)。これも、巻八に「君なくて」の返歌として「あしからし」の歌があることを述べたもので、拾遺集現存諸本一致して然りであり、問題はない。
古今集目録-一五一段段末(38オ)に、「奈良帝」の附載として、人丸に触れた記述である。類従本古今集目録によれば、柿本人麿の注に、
以年々叙位除目、尋其昇進 無所見、但古万葉集第二云(中略)今案、件行幸日従駕者、定叙爵歟。(下略)
とあり、それを簡略にしたものであり、末尾に「委見古今目録之」と記したのである。
しかし、実は、本書では書名を挙げずに古今集目録を引用した条は、他にも多い。一六八段(64オ)の遍照の略伝「嘉祥三年」云々以下「号花山僧正」まで十七行に亘る文はすべて古今集目録に拠り、冒頭から「時人悠」までは「良峯宗貞」の項、以下は「僧正遍昭」の項で、両者を合せ載せたものである。従ってその間に見える「国史」「三代実録」「雑類略説」などすべて、孫引きにすぎない。もっとも、細かく見れば、類従本と相補うところもあり、たとえば、類従本「良峯宗貞」の項の「来報恩」は本書の「求報恩」に従うべきである。また同じく一六八段々末「遍照僧正二郎」の勘物の中「昌泰元年」以下「御馬等之」まで七行、さらに最末(69オ)の「寛平八年」云々以下「尽其能也云々」まで十行も全文古今集目録そのままの引用で、巻尾(78オ)の黒主の勘注も然りである。この間にも類従本を訂正しうる所があり、たとえば類従本では、これを「素性」のこととするが、本書ではすべて「由性」と記しており、おそらくは、本書勘注者一家の見識として、その冒頭に「素性非僧都也、遍照嫡男僧都由性也」と記し加えたものか。「系図云由性雲林院別当遍照僧正俗時子也、少僧都云々」は、右述の如く、古今集目録、素性の条に見えるものであるが、京極僧都を由性と見る説に有力な資料であり、近時、これを由性とする説が有力となりつつある。本書の記述は、その点尊重すべきである。また、本書(69ウ)の「発昭」の文字は、類従本古今集目録では「発眼」とするが、もとより誤である。「発昭」は紀長谷雄の号であり、文脈からして当然、それが正しい。
国史・日本紀-一五三段(40ウ)に見える「国史」の記事は類聚国史三十一、日本紀略大同二年九月二十一日の条に見えるもので、後文の「日本紀云大同二年九月乙亥」云々の文章が、類聚国史に一致する。しかし、本書の注釈者が紀年体でなく類纂物である類聚国史をさして「日本紀」と呼ぶとは考えにくく、おそらくは、「日本紀」とは、大同二年の部分が現在佚している日本後紀の佚文なのではあるまいか。というのは、後文の「平城初有童謡曰」以下「登〓之徴也」までは、現存する日本後紀大同元年四月庚子条に同文であり、それに続く「大同三年九月戊戌」以下「授従五位上」まで歌を含めて五行分も日本後紀当該年月日条にほぼ同文なのである。
しかし、「国史」の方は、問題である。この条では幾つかの問題点がある。一は「おほしまにおはしまして」に当る語が、類聚国史には見当らないことであり、二は歌詞が、類聚国史では「みやひとのそのかにめづる」・「おりひとのこころのまにま」とあり、この「国史」の「みな人のそのかににほふ」・「おり人の心のまゝに」とはかなり異っている事である。第一の点は、後文の大同三年九月「戊戌幸神泉苑」の折の和歌の第三・四句に「おほしまのをはなかすゑを」とあって、「おほしま」は神泉苑に関わる名称であることが分るが、第二点は、「国史」が類聚国史ではないこと、又したがって、その材料となったであろう日本後紀でもないことが察せられはしないか。「国史」の歌詞が類聚国史の歌詞に比して、いかにも平安朝的ななだらかさを持つものであること、またこれと同じ歌詞が古今六帖の歌に見えることは、この「国史」の成立の遅さを示唆するように思われる。
一六八段(64オ)の「国史」は、この前後の全文が前述の通り古今集目録からの孫引きである以上、問題とするには足るまい。又、この「国史」が前条の「国史」と同一か否かは不明である。
古今仮名序-一五五段段末(44オ)。この本文は、「あさか山のことばは」とあるべきところ、「あさか山のことは」と、本書には一字畳字が落ちている事を除けば、すべて伊達本その他御子左家系統本に一致する。
古今集-一六一段(52オ)、大原野行幸の主に関して、古今集本文に「二条后まだ東宮の御息所と申けるとき」とある事について、これを「東宮の生母」でなく、「東宮夫人」と解した上で、当時東宮(清和)は九歳末満では幼少すぎておかしいと疑ったものらしい。本文の問題ではないが、本書勘注者の解釈力について、不審を抱かせる事例である。
一六三段(53ウ)。これは勘注も簡に過ぎ、諸本と比較してその本文系統を云云するには足りない。
また一六六段(55ウ)は、前に伊勢物語の項でも述べた「右近馬場ノヒヲリノ日」と「テツカヒ」の問題である。「右近馬場ノヒヲリノ日」の本文を有する古今集は、後鳥羽院本・永暦本・建久本・寂恵本・伊達本であり、大体は御子左家系統本である。本書の勘注は「……トアル本アリ」だから、通常の本は「左近」とあるというのが前提となっているのであろう。現存本では「左近」をとるものは、六条家本、清輔本系諸本(永治本・前田家本等)・雅経本などである。袖中抄には、顕輔が「左近馬場のひをりの日は天下第一の難義」としていた、と記されていて、「左近」を普通とする本書の考え方と一致するわけである。
それに続く「但正本ニハテツカヒノ日ムカヒニタテリケル車トアリ」の「正本」は、文脈上古今集の正本と解すべきである。先に伊勢物語の場合にも、「右近馬場ノテツカヒノ日」とあるのが、業平自筆の塗籠本の本文だとあったが、勘注者は、古今集でもまた正本は同様の本文を有するというのである。又それは流布本ではないが、それよりも一層価値あり信用できるというのが、彼の主張である。しかし、こうした本文の古今集は一本も現存しない。果して、勘注者のいうとおり、鎌倉初期にはこの種の本文の文が存在したのであろうか。興味を唆られる記述であることは間違いない。
業平集-一六三段(53オ)。業平集には「うゑしうゑは」の歌の返歌として「秋はきに色とる」が続くというのだが、業平集の中でも、それは特に雅平本(69・70)、西本願寺本(5・6)類従本(6・7)などにみられるもので、在中将集・歌仙家集本ではそうではない。また、右三本の中、本書の如く、「皇后宮御返歌」である旨を記したものはない。また書陵部三十六人集本は二首続いているが、詞書もなく、贈答歌の形ではない。つぎに、一六六段(55オ)、先述の「右近馬場のひをり」の件につき、業平集に「右近馬場ノテツカヒミ侍ムカヒニタテリケル車ノシタスタレノハサマヨリハツカニ女ノミヱケレハ」とあるという。在中将集には、
右近のむまはの手つかひにむかひにたてりけるくるまのしたすたれよりはつかに女の見えけれは(下略)
とあり、西本願寺本には
右近のむまはのてつかひみはへるむかひにたてるくるまのしたすたれよりはつかに女の見え侍けれは(下略)
とあって、本書は西本願寺本に近いが、「下すたれのはさまより」は、一致しない。しかし、前条と合せて考えれば、本書のいう業平集は、現存本中では西本願寺本系統に比較的近いとみてよいか。
皇代記-一六一段(52オ)。現存本「皇代記」(十三世紀最末に初稿成立とされる)にはこの記事は見えない。この書名は、古今集目録の大友黒主条にも見えていて、平安朝成立の書であり、現存本とは別である。本条の内容は、三代実録にほぼ同じであるが、順子の出家の日を「廿五日」とするのは、三代実録には「廿九日」とあって小異がある。つぎに一七一段々末(76ウ)の皇代記の仁寿四年の記事は、六国史、扶桑略記ともに闕文の部分である。賀茂斎院御禊の記録として興味ふかいもので、他に所見のない新資料ではなかろうか。すでに国書逸文には皇代記逸文八条が集録されているが、本書の二条はそれに付加すべきものであろう。
或書-一六一段(52オ)。ここにいう「或書」の記事内容は、「貞観三年辛巳歳二十」であり、「業平三十七」以下「有疑」までは、勘注者の私注である。伊勢物語にいう大原野行幸は、貞観三年二月二十五日で、その主人は順子ではなく二条后高子とするのが「或書」で、それに対して、勘注者は貞観三年当時高子は二十歳、業平三十七歳で、兵衛佐になる以前だから、伊勢本文にいう「兵衛府」に矛盾し、信用できぬ、前項の「東宮の御息所」の件と合せてここは高子ではなく、順子でなければならぬ、というのである。その前提には物語本文として、「近衛」を採らず、「兵衛」を採る立場があるわけだ。支子本大和物語の物語本文には「二条后」とせず、ただ「きさいの宮」とするだけなので、こうした五条后順子説も生まれるのであろう。もっとも高子は、注者自身もいうように、貞観三年たしかに二十歳で、年齢や経歴、周囲の事情からみてもこうした業平の詠歌が生れるはずがあるまい。現在では、だから高子の生んだ貞明親王(陽成)が立太子した貞観十一年から、即位した同十八年の間のこととするのである。貞観三年高子説は、当時としても奇説に過ぎなかったであろう。
しかし、そんな説があったことが分るだけでも面白い。
他の一項、一六八段(69ウ)は、「或書云」以下全文、古今集目録の引用である。ただし、「或書云」の文字は、古今集目録では、「或人裏書云」と変っている。だから、この「或書」と「或人裏書」とが同一書だと直ちにいうわけにもいくまい。この項の或書と前条の「或書」とが同一か否かも、また分からないのである。
大納〈言語(ママ)〉-一六八段(69ウ)、「小野小町」の条。この書名はたぶん「大納言物語」の脱字に基くのではあるまいか。この称の付く「宇治大納言物語」などが直ちに連想される。それは、周知の如く、今昔物語集の原型かといわれるものだが、現存今昔物語集に、本書でいう小町と遍照が出会った記事はない。長谷寺は、大和物語本文の前段に、遍照の妻子が夫の身を案じて長谷寺に参籠しているところへ、来合せた遍照が物蔭からその姿を見て血の涙を流す話があり、それとの混同が生じているものかもしれない。十訓抄六には、この事に触れているので、十訓抄の種本の一となった「宇治大納言物語」にでも、その種の話があったものか。
本願系図-一六八段(67ウ)。ここに載せる坂上田村麿の略伝は、国史の伝を簡約したものかと察せられるが、一・二誤がある。すなわち、日本後紀弘仁二年五月二十二日条に田村麿の薨を伝え、本書の同年十二月二十三日薨とするのとは月が異る。また日本後紀は、「大宿祢」「苅田麿之子也」とするに対し、本書は「宿祢」「苅田麿男」である。また、本書が、彼の大納言就任を弘仁元年九月十日とすることは、日本後紀同日条には見えないが、公卿補任の記述には合致する。なお、「本願系図」なる書名は、他に所見のないもので、現存の「本願寺系図」(類従所収)とは別物である。前条「大納言物語」と共に、本朝書籍目録考証および、国書逸文ともにこの書名はなく、佚書の逸文として、注目すべきであろう。
残りの三代実録・雑類略説・系図・宮滝遊覧記・御記・菅根序は、すべて本書が拠った古今集目録引用文中の書目であり、特にここに解説の要はあるまい。
以上、本書中引用書目を明記した書籍について調査したが、その結果としては、大体左のようなことがいえよう。
一、従来未知の書籍名がその佚文と共に見出されること。
二、書目としては既知のものながら、現存本の佚文かと思しきものが見出されること。
三、現存書と書名を同じくしながら、内容は全く別個のものの佚文が見出されること。
四、現存書と大体は同じらしいが、部分的にあるいは、それを越えて、研究史的に重要な問題をもつ点があること。
八
次ぎに、本書の勘注のうち、典拠未詳の勘注について、以下注目すべき点を拾って述べる。
一四二段は「故御息所」の姉が生涯独身を通した話であるが、その冒頭本文に諸本間に小異がある。すなわち、二条家本系統では、
故御息所の御姉、おほいこ
とあり、六条家本(巫、鈴、勝、支)では、
故御息所の御あね〈伊勢のかみのむすめ(傍線)〉おほいこ
とあって、傍線部が多い。この「おほいこ」なる人物について、古く天福本(厳島神社本)勘注には
此人不知誰、若元方卿女更衣祐姫之姉歟
とし、大和物語鈔はこれを受けたらしく、
今案説、元方民部卿の女更衣祐姫の姉歟と云々、たしかならず
という。
元方民部卿は、例の悪霊で名の高い人物で、菅原菅根の二男、大納言、民部卿、天暦七年(七五三)三月薨、六十六歳。祐姫はその娘で母は不明。村上天皇の更衣となり、広平親王(七五〇生)・緝子内親王を生んだ。栄花物語などには「御息所」とも呼ばれている。その姉のことは不明である。祐姫が広平親王を生んだ年齢は分らないが、かりに二十歳とすれば、彼女の出生は九三〇年となり、「おほいこ」はたぶんその姉とすれば、それ以前の出生となる。一方元方は八八八年の誕生だから、彼が長女を作ったのは、たぶん九〇八年よりは後とみてよかろうし、かりに九〇八年に「おほいこ」が生れたとすれば、彼女は「二十九にてなむうせたまひける」とあるから、九三六年(承平九)に死んだ勘定となる。大和物語の成立は、だいたいは天暦五年(九五一)ごろといわれるから、かりに史実としてみても、素材として矛盾はないわけだ。しかしこの説話自体は、古今集にみえる平中の歌「ありはてぬ命まつまの」の歌を材料として虚構した作だという高橋正治氏の説(「大和物語の位相」国語と国文学、昭和三一年九月)も有力なように、史実そのものとしてみるべき積極的根拠もまた甚だ乏しい。「鈔」も「たしかならず」とするゆえんである。
ところで、田村本の勘注では、前掲の如く、
・ 故御息所者 宇多天皇女歟 追可考
・ 如異本各相違歟如何(細注)
・ 御姉第五者 宇多院第五女依子内親王是也。御母者小八条御息所、宇多天皇更衣、従五位源貞子、民部卿昇大娘、承平六年七月七日薨、年四十二、号鬘宮。御継母者、贈太上大臣菅原朝臣女子、字多天皇女御、源氏順子母
・ 太政大臣藤原基経二女、温子。母四品人康親王女、仁和四年十月六日初入内、即九日為女御、寛平九年七月二十六日為皇太夫人年[二十六]、延喜五年五月出家、七年六月八日崩[年三十六]、号七条后。均子内親王・柏子内親王母。
・ 贈皇后篠原胤子、内大臣高藤女。
・ 左大臣時平女。雅明親王・行明親王母、京極御息所。
・ 已上四人之間有疑。
・ 後撰恋第六云
宇多院にはへりける人にせうそくつかはしける、返事もせさりけれは、よみ人しらす
うたのゝはみゝなしやまかよふことりよふこゑをたにこたへさるらん
かへし、宇多院五宮
みゝなしのやまならねともよふことりなにかはきかむときならぬねを
頭欄の注番号は、私に附したものである。
注全文の要旨は「故御息所」とは誰かであり、その典拠に、宇多天皇々女依子内親王・基経女温子・高藤女胤子・時平女京極御息所の四人を挙げ、しかもそれらすべて疑わしいと言う趣旨である。 まず・の依子内親王説について検討すると、
イ 依子を宇多天皇第五女とすること。
ロ 源貞子が昇の「大娘」長女で、「小八条御息所」の称があったとすること。
ハ 依子の死を承平六年七月七日、享年四十二歳、鬘宮の称があった、とすること。
ニ 継母として、道真女(一代要記によれば衍子)を挙げること。
がその内容である。
この中イについては後述する。ロは、尊卑分脈に、昇の次女の位置に「小八条御息所」と注しており、長女の点は合わないが、称号は符合する。一代要記は「民部卿昇一女」とする。
ハは、一代要記に、薨年令、称号ともに合致するが、薨年月のみは、承平六年七月一日とあって、合わない。
ニは事柄の性格上、詳しい事は分るまい。
次に・の温子について。この中、一代要記・紀略などと合わない点は、年齢を皇太夫人となったとき三十六(一代要記)、崩年齢四十六(一代要記)と本書とは各十歳違っていることである。もっとも、紀略諸本の崩年齢は本書と同じく「三十六」としているが、活字本では、一代要紀に合わせて、「四十六」と改めている。また出家年時を本書では延喜五年五月とするが、一代要記では延喜三年正月とする。崩御の日も、紀略では六月七日である。
こうして記録と照合すれば、右のような多少の不一致点もあり、ことに年齢の喰い違いはいちじるしいが、全体としてみれば、本書の勘注は元来は信頼するに足る記録等に拠ったものとの印象が強い。
・の胤子説・の京極御息所説も特に問題はなく、・もまた正しく後撰集恋六所出の贈答歌である。
とすれば、・~・の勘注の依拠した原資料そのものについては、概して信用度の高いものといって差し支えあるまい。
しかし、問題はさらに別にある。第一には、本書のこれらの注の執筆・配列がはたして同一人の手に依って成ったか否か、という点であり、第二には、物語本文との関係に於いて、はたして矛盾がないか、どうか、である。
まず成立の問題から考えよう。・では、「御息所」なる人物について、宇多皇女かと推定し、且つ同時に、それに概念、ないし不安を持っていて、後日の追考を要するといっている。
にも拘らず・および・ではこの宇多皇女説をいわば発展させた形で、依子内親王説を積極的に打ち出している。・の「宇多院五宮」は、後撰集為相本の勘物にも「依子、鬘宮、母更衣貞子、大納言昇女」とあるので、五宮依子説はおそらくは、二条家の説だったのであろう。
さらに、・は、細字でもあり、あきらかに後人の追注である。その意味は、「異本の如く」とは、物語本文に関することで、「異文を採れば、御息所も、その姉のこともくいちがってくるのではないか、どうもおかしい」と、・の説に疑を挿んだのである。その「異文」とは、おそらくは、現存二条家本には「伊勢のかみのむすめ」の一句がなく、本書を含んで六条家本にのみそれがある事をさしているのであろう。つまり二条家本に従えば、御息所もその姉も、出自は書いてないから、皇女ととる事も出来ようが、六条家本(異本)に従えばそれは「伊勢守」の娘だから、絶対に皇女とはとれない、というのであろう。
しかもこの際の追注者の立場は、二条家本を正常の本文と見、六条家本を異本とみる立場である。本書に即していえば、底本は六条家本であり、異本が二条家本であるから、この・・の注は、はじめから六条家本に附されていたものではなく、もともと二条家本の注および、それに対する追注だったものが、あとで六条家本に転写されたものと考えるほかないであろう。
さらに、・以下に移ろう。・は前述の如く・の宇多皇女説に刺戟された人が、後にそれを発展させたものかと思われるが、「伊勢のかみのむすめ」との矛盾は、以下のように考えて処理するとしても、それ自体として他にやや検討を要するものがある。
それは、この・が「おほいこ」の意を「御五」と解している事である。現在の通説は「おほいこ」を長女の意としているが、実は、長女の意の「おほいこ」は他に用例がないようで、土佐日記承平五年二月六日条に見える「おほいこ」なる語も、単に年長の女性への敬称のようなものにすぎない。「大君(おほいきみ)」の類推から、「おほいこ」を長女と解するのも、間違いとは云えないまでも、不安は残るわけだ。
しかし、そうかといって、本書の・のように、それを「御五」と解する理由もあまりなさそうである。史実としても、依子が第五女だったという明徴は乏しい。皇胤紹運録は、宇多皇女に、順に、均子、柔子、君子、孚子の各内親王を挙げ、次ぎに「若子」をおき、次いで依子内親王を挙げる。依子は、「若子」を入れれば第六女、省けば第五女となる。一代要記は、同じく均子、孚子、依子、誨子、季子、成子、傾子の順に挙げ、依子は第三女となる。また、紀略承平六年七月一日薨条には「宇多第七女」とする。「五女」は、おそらくは、単なる一説にすぎなかったか、あるいはむしろこうした本文に強いて合わせようとしただけの、いわば思い付きの類だったのかもしれない。
・~・は、右の宇多院五女説に対する異説で、基経二女説・温子説・胤子説・時平女説などをあげる。が、すべて、「伊勢守のむすめ」の本文に関心を払った形跡はない。おそらくは、これらの勘注も、その本文をもたない二条家本系統の物語本文に即したものなのではあるまいか。前述の②の追注だけが「異文」として、それに拘ったことになる。
あるいは、臆測を敢てすれば、この本文中の一句「伊勢守のむすめ」は大和物語の本来のものではなくて、やや後に伊勢集との関連から附加された一句ということになりはしないか。この段の虚構が平中の歌によっていることは、前述の通り高橋氏のつとに指摘されたことであり、さらに南波浩氏(古典全書本『大和物語』解題)もそれを伊勢集の影響とされた。しかし、オリジナルな大和物語の形に右の一句がはじめからあったと考えるよりは、右のような支子本の奇妙な勘注のありかたから推して、この一句はむしろ、後補のもののように思われるのである。ということは、六条家本の発生そのものを考える上にも関わる所の大きい問題ともいえようか。
ところで、末尾の・の「已上四人之間有疑」の文字は、これらの説すべてに不信を表明しているわけで、これまた右の各勘注者とは次元を異にしている。あるいは、これこそ、六条家の学者の言というべきなのであろうか。長々と先人の説を引用記述しながら、それを一向信用していないことをわざわざ書き加える姿に興味を唆られるのである。
九
次ぎに、一四七段「女一のみこ」の脚注に移る。これも二説並記である。その一は均子内親王説である。これは古来のものらしく、天福本勘注にも、
均子、母中宮温子、依后腹号女一宮、後代祐子内親王又如此、雖高倉第四、号高倉一宮
と、その「一宮」の称号の由来についても説いている。さて支子本勘注の中、「配敦〈房(・)〉親王」とあるのは「〈敦慶(・)〉」の誤で、母を温子とするのは一代要記と同じであり、皇胤紹運録の「胤子」説とは異る。もちろん「温子」が正しい。その他薨年月日など誤りはない。
他の一説は奇説というべきである。これは一条伊尹女の冷泉院女御懐子を引き合いに出して、彼女が女一宮(宗子)、女二宮(尊子、火の宮)の母であることを述べ、最後に、「然而件一宮時代不相叶、為散両方之疑殆注之」というのである。この宗子、尊子の薨去は各寛和二年(九八二)、寛和元年である。本段(処女塚)の温子宮廷の風流は延喜年間の出来事だから、数十年も時代は下るわけで、注みずから「時代相叶ハズ」という通りだ。しかし、それにつづく「為散」以下は、「それをわざわざ記すのは、両説が世に行われているが、女一宮宗子内親王説の方は不当である旨を記して、後人が迷わないようにしておくためだ」の意であろう。単に二説を機械的に並記する、というのではなくて、誤りを誤りとして、はっきり指摘しておきたい、というのであり、啓蒙的、批判的とでもいうべき態度が見えるのである。
諸説並記に関連して、さらに一七〇段の勘注を挙げる。これは「伊衡」「兵衡の命婦」「式部卿宮」の考証である。
まず「伊衡」(八七五-九三七)については、古く為氏本、天福本などの二条家本勘注では、延喜十六年(十七年)の蔵人・少将任官、延長二(三)年の叙四位、同年十月の中将任官、八年叙正四位などの事を記すのに対して、支子本勘注では、それらをすべて省き、両書に見えない母親のことや薨時と享年などを記している。またこの記述を公卿補任などに照合すれば、薨日が一日ずれるほかは、すべて一致する。
また「式部卿宮」については、通説は敦慶親王(八八七-九三〇)とするが、支子本は重明親王(九〇六-九五四)を挙げる。その記述内容も名を「将保」と「持保」と小異を示す以外は一代要記とはぼ同じといえる。しかし、本段素材としての適格性となると、九〇六年生れの重明親王の別当を九三七年に没した伊衡が勤めるというのは、あり得ないことではないが、かなり無理である。やはり通説通り八八七年生れの敦慶親王と八七五年生れの伊衡との主従関係とみる方がより自然であろう。
次いで支子本は「兵衛命婦」について、四説をあげ、考証を加えている。
その第一は「重明親王女」である。その趣旨は、彼女は本院藤原時平の息顕忠に仕えた女房であるという点にあり、「右大臣従二位自延木至康保現存」は顕忠に関する注である。この注は、富小路右大臣顕忠に関する公卿補任の記述に照らして矛盾がない。顕忠が兵衛督に任じたことも、天慶二-四年の間に歴々として指摘できる。しかし、肝腎の重明親王女が、顕忠家の女房で「兵衛命婦」と称されたかどうかについては、現在裏付け資料は皆無である。重明親王の生卒は、九〇六~九四五年で、紹運録には、その子女として、徽子女王(九二九-九八五)と旅子女王の名を挙げる。別に尊卑分脈摂家系には、朝光の子朝経(九八五-一〇四一)の項に母式部卿重明親王女と注する。しかし、この人がもと顕忠に仕えた女房だったかどうか、年代は必ずしも合わないわけではないが、それだけではどうともいえない。主人の顕忠のわずか二年間の官職を、わが女房名として用うるというのも、一般にはありそうもないことである。重明親王女を「兵衛命婦」に当てる説は、どうも信用がおけそうもない。
次ぎは「兼茂朝臣女兵衛」である。注の趣旨は、父の兼茂は一説に兵衛督とし、寛平-延喜の人で、さらに兼茂女には元良親王との贈答歌があるとする。尊卑文脈によれば、藤原兼茂は九一三年に没したが、このとき兄の兼輔は四十七歳であった。生卒については、右の勘注は概ね正しく、また官職も文脈に「左兵衛督」云々とあって勘注に符合する。また、兼茂女と元良親王との贈答歌とは、後撰集十四に、
元良のみこのみそかにすみ侍りける、今こむとたのめてこずなりにければ、兵衝、
人しれずまつにねられぬありあけの月にさへこそあざむかれけれ
とあるのを指しており、定家本の勘物には、「兵衛」に「兼茂朝臣女」と注記を加えている。元良親王と兼茂女との間に関係があったとするのは、鎌倉期以来の常識であったとみえる。
次に「峯茂女兵衛」説であるが、この「峯茂」は、尊卑文脈にも所見がなく、「後撰作者」とあるが、現存後撰集作者名にもこの文字は見当たらず、作者部類にもない。その他の記録はまだ精査するには至っていないが、何かの間違いか、あるいは、今日には伝わらない歌人がいたのか、何とも決しかねる。
最後の「藤高経女兵衛」説であるが、勘注の趣旨は、彼女は、藤原忠房に仕えた女房であり、古今集の作者であること、また父の高経は「県太臣」の長男で、貞観から寛平頃の人だ、というのである。尊卑分脈によれば、藤原高経は長良の男で、「内蔵頭・左中弁右兵衛督・正四下・寛平五(八九三)・五・十九卒」とある。もっとも、長良の男は、国経・遠経・基経・高経・弘経・清経の順に名が出ている。各の出生年時の判明する者を記せば、国経は八二八年生、基経は八三六年生、清経八四五年生で、右の順に生れている。高経はおそらくは八四〇年ごろの出生で、長良の長男ではなかろう。本書勘注は、信じ難い。
また長良にはたして「県大臣(あがたのおとど)」の通称があったか否か、これまた他の資料に全く所見がなく、不審である。
また高経女が「兵衛」と呼ばれて、古今集作者であることは、つとに周知の事である。古今集物名・恋五に各一首あり、作者部類にも「藤原忠房家人・右兵衛督高経女」として出ている。しかし、尊卑分脈では、彼女について「右京大夫忠房〈妻(・)〉(室ィ)」とする。また文脈では他にも、忠房の子の親衛について「母、左兵衛督高経女」と記し、忠房妻説が補強される。一方、支子本勘注は、「忠房家女房」とするのであり、これに似るのが、作者部類の「忠房家人」説である。当代「女房」の文字は、必ずしも宮仕え女房、使用人としての侍女の意だけではなく、妻室の意に用いることもある。御堂関白記が用いる「女方」は、倫子を指す場合が多いのがその一例である。もし、その意ならば、勘注も文脈も共に忠房の室として一致するわけであるが、その場合には、「忠房家女房」の「家」の一字がしっくりしないことになりそうだ。忠房が従四位上、大和守、右京大夫といった受領階級であったことを思うと、そのような卑官に仕えた女房が古今集作者として名をつらね得るか、という疑いも生れよう。本書勘注・作者部類ともに、やや不審を抱かざるを得ない。
さて、勘注はこれら四人をあげたあとに付け加えて、以上四人とも「命婦」の称はないとか、また四人の中では、本段の年代に適合するから、高経女がもっともふさわしい、というが、それについてはどうか。
本段の冒頭には、「伊衡の宰相の中将にものしたまひける」とある。伊衡は承平四年(九三四)十二月参議となったが、それより早く、延長二年(九二四)十月十四日、四十九歳で右近権中将となり、同六年左中将に転、以後五十九歳で参議となるまで、その職にあった。では右の四人の中で、この九二四-九三四年の間に、伊衡の相手として歌を交せそうな人は誰か。
高経は八四〇年ごろに生れており、高経女はたぶん八六〇~八七〇年ごろの出生であろう。八七五年生れの伊衡よりも若干年上だがお互に初老の男女、不自然というほどの事もないようだ。勘注の「年紀相叶之故也」の文字はそのまま受入れることもできよう。
では重明親王女説はどうか。親王は九〇六年生れで、その女の斎官女御徽子女王は九二九年生れである。問題の「兵衛命婦」がその妹であったとして、八七五年生れの伊衡の相手はつとまりそうもない。前述の「式部卿宮」に重明親王をあてる誤りにつながるものではあるが、かなり杜撰な説といえる。
「峯茂女」説もまた、何一つ手代推定の手がかりはないのだから、論外である。
残りの「兼茂女」についてはどうか。その父兼茂は前述の如く九二三年に没し、時にその兄兼輔は四十七歳。兼茂もまた四十歳台ではなかったか。とすれば、その女ならば、おそらくは二十歳前半ぐらいにはなっていよう。右の伊衡の中将時代九二四-九三四年が、それより若干年齢を加えて、贈答歌の相手として、適切である。本書勘注が、兼茂女説を無視するに足る積極的理由があるとは思えない。今日の通説が多く、兼茂女説を採っているのも無理ではない。
十
前節でもいささか触れたが、本書の勘注について見落すことのできない一点は、二条家本系統本の勘注との相違である。勘注の多くは、史実・人物考証に関するものであるから、それらは、本来より確実な何らかの典拠があり、それらを引くことで成り立つことが多いはずであるから、一般にこの種の同一事項に関する記述は、それほど大きくくい違うことはあまりないようにも考えられよう。しかし、本書の実態は必ずしもそうではない。先に引いた一六八段僧正遍照良峯宗貞に関する記事もそれであるが、その外にも、例を引けば、一七〇段の藤原伊衡の勘物に、本書では、前掲の如く、
参議正四位下左大弁左兵衛督藤原伊衡、左中将従四位上敏行三男、母従五位下多治弟梶女、天慶元年十二月十六日薨[六十三]
とあるが、為氏本勘物、
参議右兵衛督敏行男、延喜十六年左少将、十七年蔵人、延長三年四位、同十月中将、八年正四位下
とし、天福本では、
伊衡延木十七年蔵人少将、延長二年四位、十月右中将春宮亮、八年十一月正四位下兼内蔵頭、承平四年参議、止中将、七年左兵衛督
とする。後の二者をくらべると、天福本がやや詳しく為氏本が簡という差はあるものの、大体は同じ内容であるが、支子本の勘注は、内容に於いてこれらとほとんど重なる所がない。一七一段の「左大臣」(実頼)の注も同趣である。支子本では、
左大臣藤原実頼、貞信公一男、母宇多天皇女源氏、号菅原[斤+頁]子、康保四年十二月十三日太政大臣[六十八]、天禄元年五月十八日薨[七十一]贈正一位、謚号清慎公小野宮殿
とするが、天福本では、
清慎公 延木十九年正月右少将、廿一年従五位上蔵人、延長四年正五位下、六年四位左中将廿九、八年蔵人頭、承平元年参議中将[卅二]、承平三年右衛門督別当、
としている。これまた両者相重なる記事は皆無である。さらに同段「広幡中納言」の勘物、支子本では、
涙庶明、寛平天皇第二皇子三品斎世親王二男、母山城守橘公広女、天暦九年五月廿日薨[五十三]、号広幡中納言、広幡者所之名也、所謂今之祇■林寺跡云々、(下略)
とし、天福本は、
天慶四年参議三品斎世親王三男、寛平御孫親王、母広相卿女、延木五年出家、延長五年薨 としている。庶明を一は斎世親王の二男とし、他は三男とすること、母を一は橘公広女とし、他は広相卿女とすること、薨年を一は天暦九年とし、他は延長五年とすることなど、同一事項を扱いながら、大きな相違を示している。
念のため、公卿補任および尊卑文脈によって庶明のことを検すれば、分脈では斎世親王の二男のように掲出され、母は山城守橘公〈廉(・)〉女、薨年は天暦〈元(・)〉年五月廿日とする。天福本の出家・薨年は「母広相卿女」に関するものか、あるいは、「母広相卿女」以下は、他資料の混入であろうか。いずれにせよ、史実としての真偽はさて措くとして、天福本と本書の各勘物の典拠は、全く別であることを察せしめる。
もっとも、支子本の勘物は、本文と同筆であって、鎌倉中期以前の成立にかかること明らかであるが、天福本は応永二十一年、文安三年の奥書があるにせよ、厳島神社本の書写は室町末であって、その勘物の成立は鎌倉よりかなり下る可能性もないわけではない。現在の天福本の勘注をそのまま鎌倉期の二条家の注として見ることには若干の不安も伴なうことだけれど、しかし、逆にその伝本の少いことが、後世の勘注の附加の可能性の少いことを思わせるものともいえる。
とすれば、勘注におけるこうした支子本と為氏本・天福本とのつながりの薄さは、おおざっぱにいえば、各両者を支えた六条家と二条家という学統の対立というものに帰するものなのであろう。
すでに、第四節において、支子本の本文が、御巫本、神田本とは異る別種の六条家本であることを述べ、また第七節においては、勘注に引用された、たとえば伊勢物語の本文にも、当時の六条家本とは異るものがあり、古今集もまた現存諸本に合致しない特殊な本文が引かれていることを述べたが、加えて本書の勘注も二条家本の注とは異るものの多いことを見れば、本書成立の背後にある当時の複雑な資料の広がりを想像させるのである。
以上、第八節以降は典拠未詳の勘注をとり扱ってきたが、それらの注の原資料そのものは、俗説、伝承の如きものは用いず、ほとんど記録類のみといってよいにかかわらず、特に物語本文の注釈としての可否についていえば、真偽相半ばするものといえる。諸説並記という方法自体がその事を必然ならしめるものではあるが、注釈としてみれば、信ずべからざるものがかなり多いことは疑いないだろう。
しかし、ここでの問題は、今日から見て正確な注か否かにあるのではなくて、むしろ注者の態度如何であろう。前述の如き諸説並記がその一つであり、また、そのほかに、いわば判断保留、後考に俟つといった式の慎重さが見えることをここに付け加えておきたい。
その事は、すでに部分的にはしばしば述べてきたことでもあるが、以下にそれ以外の該当個所をとりまとめておく。
本院兵衛歟(一四七段・32オ)
拾遺に返歌あり無此物語如何(一四八段・32オ)
人丸、以年々叙位除目尋其昇進、更無所見云々 但度々行幸従駕在位人歟(一五一段・38オ)
幼稚之条如何(一六一段・52オ)
尤有疑(一六一段・52ウ)
或云衣通姫之女云々 是僻言歟(一六八段・66ウ)
無末詞并歌、不審(一六九段・71オ)
女房大和 不分明之(一七一段・76オ)
広幡社何処乎、若祇■林寺辺之社歟(一七一段・67ウ)
黒主 清和・陽成・光孝・宇多之間人欺、(中略)此近江守平中興歟……亭子院并黒主
等時代相叶也(一七二段・78オ)
注者は決して結論を急がない。いずれとも決し難いことは諸説をそのまま併記し、存疑のものは、疑有り、あるいは不明とする。又時に僻言として片付け、また後考に期待する。また単に、無責任に諸説並記して済まそうというわけではなく、諸説間の優劣、採否を決しようとする態度も見える。そして、その採否の決定はほぼ素材の年代に合うか合わぬかという、歴史的、年代的考察を軸とするようである。またそれは六条家の歌学等に見える言説と軌を一にするものかどうか、それは今後の課題とすべきであろう。
最後に、本書に見える片仮名の略体字と声点の付された語をあげておく。(省略)
濁点(朱)の付された語。
みざうし〔御曽司〕(1オ)(4オ)
のぼる〔昇〕大納言(5オ)
のぞけ〔覗け〕て(18ウ)
いとゞころ〔糸所〕の別当(21オ)
をび〔帯〕とりいれて(22オ)
さうぞく〔装束〕なと(26ウ)
いかでか〔如何でか〕あらむ(27ウ)
ゆうでゝ〔湯捨てて〕(34ウ)
よむだま〔読み給〕へりける(37オ)
おやのごと〔如〕(44ウ)
ところせ〔所狭〕がりて(45オ)
してたべ〔給へ〕(50オ)
てうど〔調度〕(59ウ)
さうぞく〔装束〕(59ウ)
ずきやう〔誦経〕(59ウ)
山にぢうして〔住〕(68ウ)
著者から転載許可:今井源衛『王朝の物語と漢詩文』笠間書院.1990年2月刊.