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日本古典籍 所蔵資料解説: 扶桑名勝図

附属図書館研究開発室等の事業において電子化された日本古典籍を中心とする資料とその解説をまとめたものです。また、活字本の対応ページから検索できる資料もあります。

『扶桑名勝図』考 -九大本を中心に- 1/3

九州大学大学院文学研究科博士後期課程
川平 敏文
勝又  基

 

【目次】

  1. 『扶桑名勝図』と柳枝軒
  2. 『扶桑名勝図』の奥付
  3. 『扶桑名勝図』各帖の書誌と考察
<1>  『和州芳野山勝景図』
<2>  『安芸国厳嶋之図』
<3>  『丹後国天橋立之図』
<4>  『陸奥国塩竃松島図 附和歌』
<参考> 『本朝四勝記』

1、『扶桑名勝図』と柳枝軒

 『扶桑名勝図』は、いわゆる「日本三景」(厳島、天橋立、松島)に吉野山を加えた四名所の詳細な木版手彩色画図に、福岡藩儒貝原益軒、仙台藩儒佐久間洞巖らの解説を付したもので、京都の書肆柳枝軒(小川多左衛門)によって、正徳三年から享保十三年に渉って逐次刊行されたものである。その内訳は、『和州芳野山勝景図』、『安芸国厳島之図』、『丹後国天橋立之図』、『陸奥国塩竃松島図』であり、後述のように、柳枝軒は本来この四名所に『平安城図』を加えた五部書を「扶桑名勝図」として刊行するよう企図していたようであるが、『平安城図』は遂に上梓されなかったらしく、実際に伝存するのは上記四部のみである(また昭和五十九年一月の『八木書店古書目録』に拠れば、上記四部には丸屋善兵衛の後印本があった事が知られる)。
 以下に『扶桑名勝図』四部書の書誌・成立等を詳しく見て行くが、その前にこれ等四部書が採る「折帖仕立て」という書籍の形態と、柳枝軒について一言しておこう(以下、書籍の形態に関しては中野三敏『江戸の板本』〈平成七年〉に、柳枝軒の来歴については宗政五十緒『近世京都出版文化の研究』〈昭和五十七年〉に拠った所が多い)。
 一般に「帖仕立て」には、「折帖仕立て」・「画帖仕立て」・「包背装」等があるが、『扶桑名勝図』各帖は、横長く帯状に繋ぎ留めていった料紙を、ある一定の幅を決めて折り畳んでゆき、前後に表紙を付けたもので、「帖仕立て」の内でも最も基本的な「折帖仕立て」の形態を採る。「帖仕立て」は、直接的には巻物から派生したものと考えられるが、その巻物との最大の相違点は、通常の冊子本と同じように、見たい任意の場所をすぐに開く事が出来るという点であって、巻物のように、見たい場所まで最初から巻き広げていったり、それをまた巻き戻したりといった手間がかからない。『扶桑名勝図』各帖は、巻物のように横長に広げて行けば、美しく彩色された一続きの名所図がパノラマの如くに現前するし、また本文部を参照したくなれば、容易にそこをめくる事も可能である。『扶桑名勝図』各帖の「折帖仕立て」という装幀からは、嗜好性と便用性とを兼ね備えた本作りを目指した、書肆柳枝軒の意図が仄見えるのである。
 柳枝軒は、近世前期から明治まで続いた京都の書肆小川多左衛門(本姓茨城)の軒号で、屋号は小河屋、代々多左衛門と称した。その店舗は永らく京都六角通御幸町西入町に構えていたが、明治三十九年に東京へ移転した。初代は名を方淑といい、貞享二年『新編鎌倉志』を刊行したのがその活動の初めと言われているが、蒲生君平「柳枝軒記」(寛政八年)に拠れば、その創業は寛永末年頃まで遡ることが出来るという。方淑は元禄十四年に没、跡を継いだ二代方道は、以後約三百年の永きに渡って出版活動を展開した柳枝軒の基盤を築き上げた人物である。近世後期の水戸藩儒、小宮山楓軒の『楓軒偶記』(文化四年序)には、

京師ニテ書肆ノ大家ト称スルハ、茨城ト風月ナリ。茨城ノ家ニハ水戸、及ビ貝原ノ著書蔵板多シ。是ヲ以テ活計ス。家亦タ富メリ。故ニ今ニ至ルマデ、義公及ビ損軒ノ霊位ヲ設ケ、拝シ奉ルト云ヘリ。

とある。即ち柳枝軒小川多左衛門は風月庄左衛門と並ぶ大店で、水戸藩関係の著書と貝原益軒の著述を以て繁栄したといい、故に今に至るまで義公(水戸三代藩主光圀)と損軒(貝原益軒)の位牌を家内に置いて礼拝しているという。
 柳枝軒の経営基盤の大きな部分を貝原益軒の著作が占めていた事は上によって大凡察しがつくが、就中、第二代・方道時代の益軒紀行の刊行には目を見張るものがある。益軒紀行と柳枝軒との関係については、板坂耀子「貝原家蔵『東路記』の変容」(「江戸時代文学誌」第三号・昭和五十八年六月)に詳しい。曰く、益軒の紀行が世に受け入れられた最大の要因は、その「具体的で平明な叙述」にあり、柳枝軒はこの特色を更に利用し、「個人的な記事や特色ある記事を減じ、案内記としての性格を強める方向」で次々と益軒紀行を編集・板行して行ったという。
 今ここに、享保期までに柳枝軒が出版した益軒紀行を刊行年次順に掲げ、そこに『扶桑名勝図』四部書を重ね合わせてみると、次のようになる。書名の下に(後)とあるものは後印本である(矢島玄亮『徳川時代出版者出版物集覧(正・続)』〈昭和五十一年〉、『国書総目録』、『古典籍総合目録』等に拠る)。

元禄六年 『筑前名寄』二巻二冊
元禄九年 『和州巡覧記』一冊
『京城勝覧』二巻二冊
正徳元年 『有馬山温泉記』一冊
『京城勝覧』(後)
正徳三年 『和州芳野山勝景図』一帖
  『諸州巡覧記』五巻五冊
『木曽路記』二巻一冊
正徳四年 『日光名勝記』一冊
※この年、貝原益軒没。
正徳六年 『有馬山温泉記』(後)
享保三年 『京城勝覧』(後)
享保五年 『安芸国厳島勝景図』一帖
享保六年 『吾嬬路記』一冊
『筑前名寄』(後)
『和州巡覧記』(後)
『有馬山温泉記』(後)
『京城勝覧』(後)
『諸州巡覧記』(後)
『木曽路記』(後)
『日光名勝記』(後)
享保八年  『日光名勝記』(後)
享保十一年 『丹後国天橋立之図』一帖
享保十三年 『陸奥国塩竃松島図』一帖

表全体を通覧して特記すべき事は、享保六年における益軒紀行の一斉再刷である。これは益軒紀行が当時いかに好評を博し、需要が高かったかを知る恰好の目安となろう。そして表中●を付したものが『扶桑名勝図』四部書であるが、これ等はちょうどこの享保六年の益軒紀行一斉再刷を挟むような時期に刊行されている事が解る。柳枝軒による『扶桑名勝図』の刊行は、かかる益軒紀行の大人気を背景として行われたのであった。

2、『扶桑名勝図』の奥付

 『扶桑名勝図』各帖の巻末には概ね、色付き別紙に刷り込まれた、以下に示すような四種類の奥付のうち何れかが貼付されている。それ等は各帖の刊行年時、諸本の先後を決定するための重要な資料となるゆえ、先に一括して掲げておく事にする。
◆奥付a

一、 右吉野山図一巻者益軒貝原先生所著也。先生嘗巡覧彼地数回手自描其所見而令画工模写之蔵筺笥久矣。不佞屡乞得之今浄写之以鏤梓。
一、 又有一図所蔵名山之秘府而凡彼地之勝景所以可図者雖片石寸卉悉挙不漏可謂画美矣。不佞亦頗乞得之遂合先生之図以公于世人〃帯一本則彼地之佳境居然可知焉。
一、 採先生所作之大和巡覧記中所関彼地之詞置図之前後以代序跋也。先生今八十有四攷〃而未倦所謂得其寿者也。其寿之丁寧淳洋宜哉。
正徳三癸巳歳五月良辰
平安城書舗柳枝軒茨城信清謹誌

◆奥付b

貝原益軒翁所撰扶桑名勝圖刊行
一 芳野山圖 并記事 出来
一 安藝國厳島圖 并記事 出来
一 丹後國橋立圖 并記事 未刻
一 陸奥國松島圖 并記事 未刻
一 平安城圖  未刻

京師六角通御幸町西入町

柳枝軒茨城多左衛門蔵版

◆奥付c

扶桑名勝圖
一 芳野山圖 并記事 出来
一 安藝國厳島圖 并記事 出来
一 丹後國橋立圖 并記事 出来
一 陸奥國松島圖 并記事 未刻
一 平安城圖  未刻

享保十一丙午冬至日
 京師六角通御幸町西入町

柳枝軒茨城多左衛門蔵版

◆奥付d

扶桑名勝圖

一 芳野山圖 并記事
一 安藝國厳島圖 并記事
一 丹後國橋立圖 并記事
一 陸奥國松島圖 并記事
一 平安城圖 未刻

京師六角通御幸町西入町

柳枝軒茨城多左衛門蔵版

各形態について一先ず簡単に解説を加えておく。
 a型は『和州芳野山勝景図』のみに付されるもので、年記に示される通り正徳三年の奥付である。
 b型は「芳野山圖」と「安藝國厳島圖」までが「出来」となっており、以降が「未刻」となっているから、『安芸国厳島之図』発刊の時点、後述のように享保五年時点での奥付である。また奥付の冒頭には「貝原益軒翁所撰扶桑名勝圖刊行」とあるから、柳枝軒がこれ等五部書を益軒の著作として刊行しようとしていた事が判明する。
 c型は、「丹後國橋立圖」までが「出来」となっているので、『丹後国天橋立之図』発刊の時点、年記にも明らかなように、享保十一年時点での奥付である。その冒頭から「貝原益軒翁所撰」の文字が削除されている理由は、『丹後国天橋立之図』の考察に述べる。
 d型は、「平安城圖」のみが「未刻」とされているので、『陸奥国塩竃松島図』発刊の時点、後述のように享保十三年時点での奥付である。
 以上のような点を踏まえた上で、次に各帖の考察を加えて行く事にするが、扶桑名勝図』は『和州芳野山勝景図』以下、それぞれ独立した四帖の総称であるから、ここでは一帖ずつ分けて見て行く事とする。その手順としては、先ず各帖において、九大本の書誌を掲げ、比較する事の出来た諸本との異同を注記し、次にその成立・内容等の考察を加えるという方法を採る。但し諸本との比較は、繁瑣を厭い、諸本が九大本と比較して特に大きな差異を持つ場合(例えば序跋の有無等)に限り注記した。

『扶桑名勝図』考 -九大本を中心に- 2/3

3、『扶桑名勝図』各帖の書誌と考察

<1>『和州芳野山勝景図』  《請求番号》291.02-N77-2

※比較諸本(括弧内は所蔵・請求記号)
  1. 内閣甲(内閣文庫蔵・172-232)
  2. 内閣乙(内閣文庫蔵・172-233)
  3. 国会甲(国会図書館蔵・別-3711)
  4. 国会乙(国会図書館蔵・特1-3266)
  5. 京大谷村(京都大学附属図書館谷村文庫蔵・谷村文庫-5/83.6-ヨ1)
  6. 京大造園(京都大学農学部造園学教室蔵・290-38-I)

【書型】 縦29.3cm×横16.6cm。折本一帖。
【表紙】 菊唐草緞子表紙。
【題簽】 原装。花枠。表紙中央。「和州芳野山勝景図」(縦21.2cm×横4.6cm)。
《諸本》京大谷村…「吉野名勝考」と表紙打付(墨書)。
【内題】 「吉野山名勝考」(下記【構成】の〈名所考〉部冒頭)。
【尾題】 「吉野名勝考終」(下記【構成】の〈名所考〉部末尾)。
【匡郭】 天地のみ。単辺。22.1cm(内題右にて計測)。
【構成】 見開き全24面。
 a 見返し 1面。 薄桃色無地。
 b 題辞 3面。 「棲神霊藪」(「甘白書」)。
 c 序 3面。 「正徳癸巳年 八十四翁貝原篤信記」。
 《諸本》内閣乙…〈e 名所考〉の後、跋文の位置にあり。
 d 名所図 8面。 手彩色。
 e 名所考 9面。
 ※ 奥付 なし。
 《諸本》 内閣乙…a型。跋文(〈c 序〉参照)最終面左面に貼付。京大造園…内閣乙本に同。〈e名所考〉最終面左面に貼付。
【印記】 「朝田氏圖書記」(朱陽方印。縦3.2cm×横1.6cm)。
【備考】 内閣甲は錯簡あり。


《考察》
〈題辞〉部の甘白は松崎蘭谷の別号(<4>『陸奥国塩竃松島図』考察参照)。
〈名所図〉部の画工は不明。
〈名所考〉部は貝原益軒撰。益軒は、名篤信、字は子誠、通称は久兵衛。初め柔斎と号し、後に損軒・益軒と号す。筑前福岡藩儒として黒田忠之、及び光之に仕えた。その交遊の広さは『益軒資料』(九州史料刊行会編・昭和三十年~同三十六年)所収の日記類に明らかで、文官として自藩の文化行政に貢献する一方、京都の著名な儒学者達と親交し、好んで各地を旅行して自己の学問の幅と見聞を拡げて行った。その著書は、経学・本草学・啓蒙書・紀行類等幅広い分野に亙るが、特に紀行類に関しては、前述したような柳枝軒出版の各書があり、自然景観や産業等の地誌的情報を淡々と述べるその文体は、以降に続出する紀行類の模範となった。正徳四年八月二十七日没、享年八十五歳(『日本古典文学大辞典』・井上忠「貝原益軒」、『新日本古典文学大系』九八・板坂耀子「解説」等参照)。
 蔵書印の「朝田氏」は、近世後期の国学者岸本由豆流。通称大隅(だいぐ)、号に[木+在]園(やまぶきその)、考証閣など。村田春海門。狩谷[木+夜]斎・村田了阿・小山田与清等と共に、蔵書家として名高かった。弘化三年閏五月十七日没、享年五十九歳。
 この本の成立に関しては、内閣乙本及び京大造園本に付された、前掲奥付a型が参考になる。これに拠れば、益軒は嘗て吉野巡覧の折に自らが描いた絵を画工に模写させて秘蔵していたが、柳枝軒はこの益軒所持の吉野絵図と別人の描いた詳細な吉野絵図とを合わせ、且つ益軒の『和州巡覧記』から文章を採ってこれに付し、上梓したものだという。九大本は全体が堅固に裏打ちされ、料紙は雲母散らし、表紙・題簽共に布製という特製本であり、刷りの状態も諸本に比して良好の部類に入るが、この正徳三年奥付は貼付されていない。九大本はこの奥付が剥落してしまったものか。或いは特製本であるゆえ、献上等の為に初めから貼付されていなかったか。
 さて、この書の〈名所考〉部は、奥付に記載されている通り元禄九年刊『和州巡覧記』(『益軒全集』七所収)の吉野の部分、即ち「六田」から「如意輪寺」まで全三十六箇所の記述を殆どそのまま流用している。二箇所ほど異同がある故、掲げておくと、次の通り。

『和州巡覧記』 『和州芳野山勝景図』
○清明が瀧 青折が峯より一里有。… ○虹河瀧 青折が嵩(たけ)より一里有。…
○西河の瀧 是吉野川の上也。大瀧とも云。村の名をも大瀧と云。清明が瀧より五町ばかり有。…  ○大瀧 是吉野川の上なり。すなはち村の名をも大瀧と云。清明か瀧より五町はかり有。…
(第21面右面)

『和州巡覧記』に「清明が瀧」・「西河の瀧」で立項されていた記述が、『和州芳野山勝景図』ではそれぞれ「虹河瀧」・「大瀧」として立項されている。これは『和州巡覧記』の記述を補訂したものであろうか。
 また『和州芳野山勝景図』は、「正徳癸巳年 八十四翁貝原篤信記」と文末に署名された序文を持っていて、一見、益軒がこの書の刊行に際して新たに起稿した序文の如くであるが、実はその文面も『和州巡覧記』吉野の部分に付された総評の如き文章を流用したもので、奥付に「以代序跋」という通りである。

<2>『安芸国厳嶋之図』  《請求番号》291.02-N77-1

※比較諸本(括弧内は所蔵・請求記号)
  1. 京大造園(京都大学農学部造園学教室蔵・29-a-2)
  2. 都立加賀(都立中央図書館加賀文庫蔵・加賀文庫-2814)

【書型】 縦28.9cm×横16.5cm。折本一帖。
【表紙】 茶色地水色菊花菊葉小紋。
【題簽】 後補。書題簽。花枠。表紙中央。「安藝國嚴嶋之図」(縦21.2cm×横4.8cm)。
《諸本》  都立加賀…原装。花枠。表紙中央「安藝國厳嶌勝景図」(縦21.3cm×横4.6cm)。京大造園…表紙打付(鉛筆書)。「安藝國厳島図」。
【内題】 「安藝国嚴嶋記事」(下記【構成】の〈名所考〉部冒頭)。
【尾題】 なし。但し、下記【構成】の〈名所考〉部末尾に、「元禄二年三月日 貝原篤信書」。
【匡郭】 天地のみ。単辺。23.3cm(内題右にて計測)。
【構成】 見開き全15面。
 a 見返し 1面。 山吹色無地。
 b 題辞 3面。 「天造之神域」(「蘭谷」)。
 c 序  なし。
 《諸本》 都立加賀…あり。1面。「うけたもつかのえねの冬のはしめ洛陽の柳枝軒書の市くらにくゝまりゐて記す」。京大造園…あり。都立加賀本に同じ。但し、下記〈名所考〉の後、跋文の位置にあり。
 d 名所図 5面。 手彩色。冒頭右上に「厳島佳景」。
 e 名所考 5面。
 f 裏見返し 1面。 茶色無地。
※ 奥付 d型。裏見返し左面に貼付。
 《諸本》 都立加賀…b型。裏見返し右面に貼付。国会・京大造園…なし。
【印記】 (1)「津和野文庫」(朱陽方印。縦7.1cm×横3.2cm)。
(2)「藤浪氏蔵」(朱陽方印。縦5.7cm×横1.5cm)。
【備考】 『弘文荘待賈古書目録』18号(昭和24年10月刊)に掲載される一本は、巻末に上述した柳枝軒の跋文を付し、原表紙・原題簽、極美本という。

《考察》
〈題辞〉部の蘭谷については<4>『陸奥国塩竃松島図』参照。
〈名所図〉部の画工は不明。
〈名所考〉部は貝原益軒撰(<1>『和州芳野山勝景図』考察参照)。
 蔵書印(1)は、岩見国津和野藩校養老館。(2)は慶応義塾大学医学部教授、藤浪剛一。乾々斎と号し、富士川游と共に医書の蒐集で知られた。昭和十七年没、享年六十三歳。以下に述べる九大本の『丹後国天橋立之図』・『陸奥国塩竃松島図』も、この二つの蔵書印を有す。
 この書の成立に関しては、都立加賀本にある柳枝軒序文(京大造園本では跋文の位置にあり)が参考になる。

藝のいちき。丹のはし立。奥の松島をあはせて。いちしるしき風土の数の三には定めぬ。往の年。貝原益軒の翁。此厳島のおもしろき事ともを。筆にもしるし。繪にも寫しとらせて。給へりしを。年月過して。ことし初て世にひろくしぬ。橋と松とのとこしなへにとりしたゝめて。あつさにのほせ。前のとし。みよしのゝよしのゝ山さくらしてちりはめしものも。加へて四の帖となしなは。杖くつのいたはりなくして。鵞峯雁蕩のたかきによちのほり。ふねいかた物せすして。三の湘五の湖のふかきに。泛ひたらむ心地すらしを。うけたもつかのえねの冬のはしめ洛陽の柳枝軒書の市くらにくゝまりゐて記す。

即ち、先ず安芸国厳島・丹後国天橋立・陸奥国松島が日本三景である事を述べ、此度益軒著作の『安芸国厳島之図』を上梓するが、今後は丹後国天橋立・陸奥国松島の図をも続刊し、また先年刊行した吉野山の図をも加えて四帖の絵図としたい、という予告が述べられている。文末には「うけたもつかのえねの冬」とあるから、『安芸国厳島之図』の初刊は享保五年冬であった事が知られ、従って都立加賀本に付された奥付b型もまた、この時点のものであった事が解る。対して九大本は上の跋を欠き、奥付d型(享保十三年以降)が貼付されているので、後印本か。或いは別本の奥付が誤貼されたものか。
 〈名所考〉部は基本的に、貞享二年の益軒奥書がある写本『東路記』(『新日本古典文学大系』九八所収)の「安芸国厳嶋記事」に似るが、それと較べてかなり加筆・訂正されたものとなっている。『安芸国厳島之図』〈名所考〉部末には「元禄二年三月日 貝原篤信書」とあるから、ここで使用された原稿は、現存する貞享二年奥書写本『東路記』所収の「安芸国厳嶋記事」を加筆・訂正した元禄二年の段階のものであったと考えられるが、しかしここで注意せねばならない事は、〈名所図〉部と〈名所考〉部との明らかな不一致であって、〈名所図〉部が厳島神社を中心にその近郊の町並みや旧跡までを詳細に描いているのに対し、〈名所考〉部は厳島神社の由来等の説明が中心で、殆ど〈名所図〉部の内容と対応しないのである。これは先の正徳三年刊『和州芳野山勝景図』に見られる〈名所図〉部と〈名所考〉部とのかなり緊密な対応に較べれば、明らかに不親切・不徹底なものと言わねばならない。
 益軒は正徳四年に死没、そこで柳枝軒は元禄二年段階の不完全な原稿をそのまま流用しなければならなかったという事情もあったろうが、この点が聊か低評でもあったのだろうか、次の『丹後国天橋立図』では、柳枝軒は一つの方向転換を行う事になる。
 ともあれ、「安芸国厳嶋記事」が『安芸国厳島之図』の段階でどのように加筆・訂正されているのか、ほぼ同文を引用する例と、加筆された例を一例ずつ掲げておく。

「安芸国厳嶋記事」
 
『安芸国厳島之図』
 
◆ほぼ同文を引用する例
 
凡そ此地の町、四五百軒。売物多し。経堂、大なる堂也。 凡此地の町家、家数四五百軒。売物多し。高き所に経堂あり。大なる堂なり。
(第12面左面) 
◆加筆された例
 
鳥居の額、外に「厳島大明神」と真書す。弘法の筆なりと云。内には「伊都岐嶋大明神」と書す。内は似{二}尊円{一}。額は木也。 額は木なり。竪長一丈、横幅五尺あり。表に「厳嶋大明神」、裏に「伊都岐嶋大明神」とあり。後奈良帝親翰なり。いにしへ此大鳥居の額、表の方は小野道風、裏の方は空海の筆なりしを桜尾の宝庫に納置たりしを、神主、佐伯親教滅亡の時焼失せりといへり。
(第11面左面) 

 なお諸本には加えなかったが、特異な形態を存するものとして、国会本『安藝國厳嶌勝景図』(国会図書館蔵・特1-3077)がある。国会本は見開き全一五面、その内訳は〈名所図〉八面、〈名所考〉五面、〈跋〉一面、〈裏見返し〉一面。即ち、国会本は〈題辞〉を欠き、且つ〈名所図〉には他本と全く異なった、木版・地名なし・彩色なしの画が位置している。この画は「厳島面北之図」四面、「厳島背南之図」四面から成り、それぞれに「岷山岡煥冩」と刷り込まれ、且つ「岡」「煥」の落款が直に朱で押印されている。岡岷山は近世後期の画家。芸州藩士で、画を宋紫石に学んだ人物。岷山のこの厳島絵図は、『安芸国厳島之図』とは無関係に独立した折帖として出回ったものであり、国会本は、後人が岷山の厳島絵図と『安芸国厳島之図』の〈名所考〉等とを取り合わせて一帖に仕立て直したものか。

<3>『丹後國天橋立之図』  《請求番号》291.02-N77-3

※比較諸本(括弧内は所蔵・請求記号)
  1. 内閣(内閣文庫蔵・175-115)
  2. 国会(国会図書館蔵・亥-182)
  3. 京大谷村(京都大学附属図書館谷村文庫蔵・谷村文庫-京-タ2)
  4. 都立加賀(都立中央図書館加賀文庫蔵・加賀文庫-2728)

【書型】 縦29.0cm×横16.6cm。折本一帖。
【表紙】 薄茶色地水色菊花菊葉小紋。
【題簽】 後補。書題簽。花枠。表紙中央。「丹後國天橋立之図」(縦21.2cm×横4.7cm)。
《諸本》 内閣・国会…原装。花枠。表紙中央。「丹後國天橋立之図」(縦21.0㎝×横4.6㎝―内閣本)。京大谷村…なし。
【内題】 「丹後與佐海名勝略記」(下記【構成】の〈名所考〉部冒頭)
【尾題】 なし。但し、下記【構成】の〈名所考〉部本文末に「終」とあり。
【匡郭】 天地のみ。単辺。23.1cm(内題右にて計測)。
【構成】 見開き全27面。
 a 見返し 1面。 水色無地。
 b 題辞 3面。 「天路通橋」(「[呆+呆]處散人題」)。
 《諸本》  内閣…九大本と別種。2面。「弍神混生域」(「山僊龍書」)。
 c 名所図 6面。 冒頭に「丹後與謝海天橋立之圖」。
 d 序 1面。 「丹丘の野盤僧亡名子序之」。
 e 名所考 14面。
 f 跋 1面。 「うけたもつかのえねの冬のはしめ洛陽の柳枝軒書の 市くらにくゝまりゐて記す」。
 《諸本》内閣・国会・京大谷村・都立加賀…なし。
 g 裏見返し 1面。 山吹色無地。
 《諸本》国会・都立加賀…なし。
※ 奥付 c型。裏見返し左面に貼付。
 《諸本》  国会・都立加賀…なし。京大谷村…d型。裏見返し左面に貼付。
【印記】 (1)「津和野文庫」(朱陽方印。縦7.1cm×横3.2cm)。
(2)「藤浪氏蔵」(朱陽方印。縦5.7㎝×横1.5㎝)。


《考察》
〈題辞〉部の[呆+呆]處散人は松崎蘭谷(<4>『陸奥国塩竃松島図』考察参照)。内閣本〈題辞〉部の山僊龍なる人物は、落款から「雲淵」という別号があった事が知られるが、伝未詳。
 さて、『国書総目録』を始めとして、この書を貝原益軒の著とするものが多いが、「丹丘の野盤僧亡名子」の序文には、「橋立の事とも書にのせたるを略(ほゞ)左に記して考に備へ侍る。扨又雪舟の古圖にもとつきて今新に圖し遊客の助となし侍るものならし」とあるから、〈名所考〉部が亡名子の著である事は間違いなく、〈名所図〉部もまたこの人であった可能性がある。この書が益軒の著述でない事は奥付によっても確認する事が出来るのであって、『安芸国厳島之図』発刊時点のb型までは、題名として「貝原益軒翁所撰扶桑名勝圖」とあったが、この書が発刊された時点で付されたc型では、「貝原益軒翁所撰」の文字が削除されている。つまりこれは柳枝軒が当初予定していた、〈益軒著作による『扶桑名勝図』五部書〉という企画が、何らかの原因で破綻してしまった事を物語っているであろう。その原因は恐らく、先の『安芸国厳島之図』の考察に述べたような、〈名所図〉部と〈名所考〉部の不一致という問題を解消せんとする柳枝軒の方向転換にあったのではないかと思われる。益軒には既に『諸州巡覧記』(正徳三年刊)があり、その中には「山城西郡丹波丹後若狭紀行」なる記事が含まれているのであって、柳枝軒はその気になればこの本文を流用する事も可能であった。しかしこの記事は天の橋立近郊だけに絞ったものではなく、そのまま流用したのでは『安芸国厳島之図』と全く同じ轍を踏む事になる。それを敢えてしなかったのは、柳枝軒が「益軒」の名よりも、この企画の品質重視へと方向転換したからではなかろうか。この後に刊行される『陸奥国塩竃松島図』がまた、益軒とは全く無関係に佐久間洞巌の著である事は、この推定を裏付けるものである。
 亡名子についてはその素性が掴めないが、本文中に松永貞徳門の安原貞室の発句を引用しており(「成相寺」の項)、俳諧をも嗜んだ者であろう。文体は至って簡明で、益軒紀行に較べれば、名所歌や風土記類からの引用・考証が多い。
 次に諸本を比較してみると、九大本・内閣本はc型(享保十一年)の奥付が貼付されているので早い時期の本と考えられるが、対して京大谷村本はd型が貼付されているので、『陸奥国塩竃松島図』以後、即ち享保十三年以降の後印本という事が判明する。c型の奥付が付されている二書の内でも、内閣本は〈題辞〉部に他本と異なる山僊龍なる人物のものを備えているが、何れが早いものであるかは今の所決しがたい。

『扶桑名勝図』考 -九大本を中心に- 3/3

<4>『陸奥國塩竃松島図 附和歌』 《請求番号》291.02-N77-4/1, 291.02-N77-4/2

※比較諸本(括弧内は所蔵・請求記号)
  1. 京大造園(京都大学農学部造園学教室蔵・29-Mu造園)
【書型】 縦29.0cm×横16.4cm。折本二帖(以下、便宜上奥付のない帖を第1帖、奥付のある帖を第2帖とする)
《諸本》京大造園…折本一帖。
【表紙】 第1帖 薄茶色地赤茶で七宝。
第2帖 薄茶色地赤茶で雷紋と七宝。
【題簽】 第1帖 原装。花枠。表紙中央。「陸奥國塩竃松島図」(縦21.1cm×横4.6cm)。
第2帖 原装。花枠。表紙中央。「陸奥國塩竃松島図 附和歌」(縦21.1cm×横4.6cm)。但し「附和歌」の部分は墨書。
《諸本》 京大造園…原装。花枠。表紙中央。山吹色。「陸奥國塩竃松島図」(縦21.0cm×横4.6cm)。
【内題】 「鹽竃名勝考」(下記【構成】の〈名所考〉部第1面)、「松嶋名勝考」(同第9面)。
【尾題】 「鹽竃名勝考終」(下記【構成】の〈名所考〉部第8面)、「松嶋名勝考終」(同第19面)。
【匡郭】 天地のみ。単辺。24.6cm(内題右にて計測)。
【構成】 ※九大本と京大造園本は帖数が異なる故、別々に記す。
◆九大本
第1帖 見開き全13面。
 a 見返し 1面。 山吹色無地。
 b 題辞 2面。 「大塊真箇逢瀛」(「歳頃戊申/享保夏至日蘭谷/祐之 題」)。
 c 名所図 8面。 手彩色。
 d 序 1面。 「享保十三年冬至日/京師柳枝軒茨城方道謹記」。
 e 裏見返し 1面。
第2帖 見開き全23面。
 f 見返し 1面。
 g 題辞 2面。 「海内一箇乾坤」(「享保戊申夏題/祐之」)。
 h 名所考 19面。
 i 裏見返し 1面。
※ 奥付 d型。 裏見返し左面に貼付。
◆京大造園本 見開き全32面。
 a 見返し 1面。
 b 題辞 2面。 「大塊真箇逢瀛」(「歳頃戊申/享保夏至日蘭谷/祐之 題」)。
 c 名所図 8面。手彩色。
 d 名所考 19面。
 e 跋 1面。但し九大本〈序〉に同。
 f 裏見返し 1面。
※ 奥付 d型。 裏見返し左面に貼付。
【印記】 (1)「津和野文庫」(朱陽方印。縦7.1cm×横3.2cm)。
(2)「藤浪氏蔵」(朱陽方印。縦5.7cm×横1.5cm)。
【備考】 『弘文荘待賈古書目録』35号(昭和35年3月刊)に掲載される一本は、「縦三〇・三糎、横一六・七糎、大形折帖装。厚手の奉書紙、卅一枚つぎ」。

《考察》
 本書に付された柳枝軒の序文には、この『陸奥国塩竃松島図』の成立の経緯が、「仙台城下容軒翁記す所の善本を丹州梅處先生に得たり」と記されている。つまり、この『陸奥国塩竃松島図』は、仙台の「容軒」が、「梅處先生」に与えたものであり、それを柳枝軒が得て板行したもの、という訳である。
 柳枝軒に本書を提供したという「梅處先生」とは、丹波篠山藩士、松崎蘭谷の事である。蘭谷は、別号祐之・甘白、名多助。儒学を伊藤仁斎に学び、東涯とも永く親交があった。また書道にも通じており、『先哲叢談続編』には、「中年の後、臨池の技を好む。尤も草隷に長ず。細井廣澤評して曰、筆法の齊整、林道榮・高天[水+猗]、佐文山の上に在り」(原漢文)とある。本書の二つの〈題辞〉部を手掛けたのも彼である。その他、本草学にも造詣深く、稲生若水などとも交わったという。享保二十年没、享年六十二歳。
 蘭谷の『扶桑名勝図』との関りは、『陸奥国塩竃松島図』においてのみではない。『丹後國天橋立之図』には「山僊龍」なる人物の題辞を載せる本も存するが、『扶桑名勝図』所載のその他の題辞は、全て彼の筆に成るものである。総じて蘭谷奉ずる所の古学派門流は、茨城柳枝軒と深い関係があったとは言えないのであるが、蘭谷自身は、『古押譜』(正徳六年刊)・『五教大意諺解』(享保七年刊)などを柳枝軒より刊行しており、柳枝軒とは深いつながりがあったと言ってよい。蘭谷の関与が具体的に文章で述べられているのは、この『陸奥国塩竃松島図』のみであるが、『扶桑名勝図』四部書の先頭をきって刊行された『和州芳野山勝景図』(正徳三年刊)の段階から既に題辞を寄せている所を見ると、当初よりこの四部書の刊行に何らかの形で関与していたとも推測される。
 〈名所考〉部を著す容軒とは、仙台伊達藩士、佐久間洞巌の別号である。洞巌は、江戸中期仙台藩の儒者、書・画家。名は義和、字は子巌。太白山人とも号した。元文元年没、享年八十四歳。本姓は新田氏、十七歳で藩の絵所であった佐久間有徳の養子となり、後その家職を継いで食禄百五十石を領した。京都の書家沢井穿石に持明院流の書法を学び、遊佐木斎に就いて神道及び儒学を学んだ。伊達藩内で程朱学を講ずるのは洞巌に始るという。『仙台市史』五(昭和二十六年)は洞巌の伝について委細を尽しており、詳しくはそちらに依られたい。
 〈名所図〉部は無署名であるが、「雲烟朧月」の標題があり、これについては第二帖〈名所考〉部内題「塩竃名勝考」の左に、「順徳院御製の意を以て雲烟臘月を塩竃図中の標題とす」とあるので、〈名所考〉部のみならず、〈名所図〉部も洞巌が描いたものとして、疑う必要はないだろう。
 『陸奥国塩竃松島図』の〈名所考〉部は、名所の概説、故事来歴の考証の後、その地を詠んだ和歌・漢詩を類聚する、という構成より成っている。実は佐久間洞巌は『陸奥国塩竃松島図』刊行の十年前、享保四年に、広く奥羽全体にわたる地誌『奥羽観蹟聞老志』全十八巻(写本)を完成させており、〈名所考〉部は、『奥羽観蹟聞老志』の巻之七「宮城郡下」を抄出簡約したもの、と言ってよいような内容なのである。
 ここに〈名所考〉部の冒頭と、それに対応すると思われる『奥羽観蹟聞老志』巻之七宮城郡下「塩竃」の冒頭を載せるので、比較してみて戴きたい。

●『陸奥国塩竃松島図』、「塩竃」の項

 塩竃神社 

奥州宮城郡多賀国府の東北。仙臺より五六里許にあり。武甕槌命を左宮とし。經津主命を右宮とす。共に南に向ふ。岐神を別宮とす。西に向ふ。三座を合て奥州一の宮正一位塩竃大明神といふ。卜部兼連縁起にいはく。むかし天孫降臨のとき。經津主武甕槌二神先降りたまひ。葦原中国を平け定む。時に岐神を郷導とし。めぐりて陸奥州にいたり。此三柱神をこの地にまつる。

●『奥羽観蹟聞老志』巻之七、「塩竃」の項

 塩竃神社

 去多賀城址十八町餘、在塩竃村。未詳何代祀之、慶長十二年丁未、前太守黄門正宗卿令内馬場日向監造紀州良匠鶴右衛門修造之。是歳六月廿日落成焉。但以貴船糺而祀本社東。元禄六年癸酉、後太守中将綱村朝臣遷糺宮于城北古内邑。為別社自是新興経営之事。以武甕槌命為左宮、以経津主命為右宮、共南面。岐神為別宮、西面、併三座而號陸奥国一宮正一位塩竃大明神。
 謹按塩竃神號出處古来所傳粉々而難一定。於是先君綱村朝臣請之。神祇管領卜部兼連朝臣草縁起、関白基熈公書之其説始定焉。仍擧其説以主之低書舊説于其間而附之其末篇復擧源君美白石先生記備博覧参考且別作社地審定説附之後以便考索。
 社家旧説曰、太古天孫降臨経津主武甕槌二神先降平定葦原中国、時以岐神為郷導周流削定、終至陸奥国。祠此三柱神斯地。(後略)

 一見して明らかなように、『陸奥国塩竃松島図』の記事は、『奥羽観蹟聞老志』の記事より適宜抽出・簡略化し、和文に訳したものと考えてよい。紙幅の都合上、ここでは一例のみしか挙げないが、和歌・漢詩の引用など、他の箇所もおおよそ上のごとき簡略化により成っているようである。
 松崎蘭谷がどういった経緯で佐久間洞巌から『陸奥国塩竃松島図』を受け取ったかは確認できていない。ただし、『仙台叢書』(昭和三年刊)「奥羽観蹟聞老志解題」は、洞巌が、金二分で『奥羽観蹟聞老志』を筆写し、与えていたという逸話を伝える。この話の出所は不明であるが、松崎蘭谷の許にあったものも、あるいはそのようにして生れた一本であろうか。


<参考>

 なお、上記の折本型のものとは別に、四部書を冊子型に合冊して刊行した『日本四勝記』(国会図書館蔵)もある。参考として掲げておく。

『本朝四勝記』(国会図書館蔵)  《請求番号》102-143

【書型】 大本一冊・袋綴じ。縦26.4cm×横19.1cm。
【表紙】 国会図書館製覆表紙の下に、紺色地蜀江錦型押(艶出)。
【題簽】 《覆表紙》後補。書題簽。子持ち枠。表紙左肩。「本朝四勝記」(縦17.1cm×横2.9cm)。
《原表紙》後補。書題簽。単枠。表紙中央。「本朝四勝記」(下部欠損により計測不能)
【内題】 構成参照。
【尾題】 構成参照。
【匡郭】 天地のみ。単辺。縦22.0cm(下記【構成】の〈名所考〉部内題右にて計測)。
【構成】 全91丁。
 a 題辞  3丁。 「棲神霊薮」(「甘白書」)。丁付なし。
 b 序 3丁。 「正徳癸巳年 八十四翁貝原篤信記」。丁付なし。
 c 名所図 8丁。 彩色なし。丁付なし。
 d 名所考 9丁。 内題「吉野山名勝考」。尾題「吉野名勝考終」。丁付なし。
〈以上、九大本『和州芳野山勝景図』の構成に同じ。〉
 e 題辞 3丁。 「天路通橋」(「[呆+呆]處散人」)。丁付なし。
 f 名所図 6丁。 「丹後與謝海天橋立之圖」。彩色なし。丁付「一」~「六」。
 g 序 1丁。 「丹丘の野盤僧亡名子序之」。丁付「序」。
 h 名所考 14丁。 内題「丹後與佐海名勝略記」。尾題なし。但し、本文最 終丁に「終」。丁付「一」~「十四」。
〈以上、国会本『丹後国天橋立之図』等の構成に同じ。〉
 i 題辞 2丁。 「弍神混生域」(「山僊龍書」)。丁付なし。
 j 名所図 8丁。 丁付「一」~「八」。彩色なし。
 k 名所考A 8丁。 内題「鹽竃名勝考」。尾題「鹽竃名勝考」。丁付「塩一」~「塩八」。
 l 名所考B 11丁。 内題「松島名勝考」。尾題「松島名勝考終」。丁付「松一」~「松十一」。
 m 跋 1丁。 「享保十三年冬至日/京師 茨城方道謹記」。丁付「松十二」。
〈以上、京大造園本『陸奥国塩竃松島図』の構成にほぼ同じ。但し、題辞が異なる〉
 n 題辞 3丁。 「天造之神域」(「蘭谷」)。丁付「一」~「三」。
 o 名所図 5丁。 彩色なし。丁付「一」~「五」。
 p 名所考 5丁。 「元禄二年三月日 貝原篤信書」。丁付「一」~「五」。
 q 跋 1丁。 「うけたもつかのえねの冬のはしめ洛陽の柳枝軒書の市くらにくゝまりゐて記す」。丁付あるが判読不能。
〈以上、京大造園本『安芸国厳島之図』の構成に同じ。〉
※奥付 裏見返しに貼付。「京師書房/六角通寺町西江入町/柳枝軒小川多左衛門」
【印記】 「帝国図書館蔵」(朱陽方印)等。
【備考】 〈m 跋〉は、本来は「京師柳枝軒茨城方道謹記」とあるべき所だが、「柳枝軒」の軒号が削られている。

《考察》
 この一本は、『扶桑名勝図』と同じ板木を用い、本来折本であったものを袋綴じに仕立て直したものである。よって、〈名所図〉部では、ノドの部分に隙間が広く空いてしまっている等、不自然な部分が多い。彩色も施されておらず、総じて粗雑な造本と言わざるを得ない。版面は傷みが激しいため、近世後期の後印本と考えておく。
 このような粗雑な一本であるが、『扶桑名勝図』の享受史を物語るという意味では価値があろう。また、版面に傷みが目立つものの、逆にその傷みによって、埋木など板木の修訂跡が比較的顕著になっている。折本の時には鮮明に映っていた箇所でも、この本で見ると、実は埋木であったという事が判明する箇所が多々ある。また、袋綴じにすることによって、折本の時には隠れて見えなかった丁付が見えるようになっている。このように、折本の『扶桑名勝図』では分らなかった書誌的情報を多く与えてくれている。


〔付記〕本稿の執筆は、1、2、3の<1>・<2>・<3>を川平敏文、3の<4>・<参考>を勝又基が担当した。また諸本の書誌調査は、川平・勝又の共同で行った。