九州大学大学院人文科学研究院
今西祐一郎
1 江戸時代の『枕草子』
『古事記伝』や『源氏物語玉の小櫛』によって日本古典の研究史上に不朽の名をとどめる本居宣長は、伊勢の国松阪の人であった。明和9年(1772)の春、宣長は「吉野の花見にと思ひた」って、伊勢から大和をめざして旅に出る。
「ころは三月の初め、五日の暁、まだ夜を籠めて」出発し、14日に帰郷した10日間の旅の一部始終は、寛政7年(1795)刊の『菅笠の日記』にくわしい。当然といえば当然のことながら、それはたんなる物見遊山の旅ではなく、「宣長が古典の研究を通じて思い描いて来た古文化の遺跡を実地に尋ねる旅として、宣長の古典研究の上にも極めて意義の深いもの」(『本居宣長全集』第十八巻 解題)であった。
伊賀の国を経て、長谷寺のある初瀬近くに至り、遠く大和盆地にそびえる葛城山や畝傍山が見え始めたときの、「よその国ながら、かゝる名所は、明け暮れ書にも見馴れ、歌にも詠み馴れてしあれば、故里人などの逢へらん心地して、打ち付けに睦ましく覚ゆ」という宣長の感動は、そのことを雄弁に語っている
さて、初瀬の里に入ると、それまでの山道とはうって変わって、長谷寺の壮大な伽藍が宣長の目をまぶしく射る。
大方こゝ迄の道は、山懐にて、ことなる見る目もなかりしに、さしも厳めしき僧坊、御堂の立ち連なりたるを、にはかに見付けたるは、あらぬ世界に来たらん心地す。
初瀬といえば、平安時代よりこのかた、女人の参詣も盛んで、『蜻蛉日記』、『源氏物語』玉鬘巻、『更級日記』をはじめ『枕草子』にもしばしば登場することは周知のとおりである。初瀬川のほとりに一服した宣長は、
初瀬川はやくの世より流れ来て名に立ちわたる瀬々の岩波
と、1首を詠んで、さっそく参拝して、次のように記す。
かくて御堂に参り着きたるに、折しも御帳掲げたるほどにて、いと大きなる本尊の、きらへしうて見え給へる、人も拝めば、我も伏し拝む。然て、こゝかしこを見巡るに、此山の花、大方の盛りはやゝ過ぎにたれど、なほ盛りなるも、ところへに多かりけり。巳の時とて、貝吹き鐘撞くなり。むかし清少納言が詣でし時も、俄にこの貝を吹き出でつるに、驚きたるよし、書き置ける、思ひ出でられて、そのかみの面影も、見るやうなり。
時をつげる法螺貝の響きに宣長が思い出した「むかし清少納言が詣でし時」とは、
正月、寺にこもりたるは、いみじく寒く、雪がちに氷たるこそ、おかしけれ。雨などのふりぬべきけしきなるは、いとわろし。初瀬などにまうでゝ、つぼねなどするほどは、くれはしのもとに、車引きよせてたてるに………………………。
ではじまる段(『校本枕冊子』124段)のことで、法螺貝のことは、こう書かれている。
日ごろ籠もりたるに、昼はすこしのどかにぞ、はやうはありし法師の坊に、男ども、わらはべなどゆきて、つれづれなるに、たゞかたはらに貝をいとたかく俄に吹き出だしたるこそ、驚かるれ。
引用は、几帳面な宣長が自身の蔵書を記した『宝暦二年以後購求謄写書籍』や『書斎中蓄書目』(ともに『宣長全集』二十巻所収)に記載されて、宣長が所持していたことの明らかな『枕草子春曙抄』による。この文によれば、清少納言が長谷寺で法螺貝の音を耳にしたことは確かであり、宣長がそう思っていたのも当然である。
ところが、今日、私たちが古典文学全集の類で見ることのできる『枕草子』の本文では、清少納言が法螺貝の音を聞いたのは、長谷寺ではない。今日流布の『枕草子』テキストでは、それは京都の清水寺のこととして記されているのである。ためしに、新日本古典文学大系の『枕草子』(115段)を披いてみると、
正月寺にこもりたるは、いみじう寒く、雪がちにこほりたるこそをかしけれ。雨うちふりぬるけしきなるは、いとわるし。清水などにまうでて、局する程、くれはしのもとに、車ひきよせてたてたるに………………………。
と、前記「はつせなどにまうでゝ」(『春曙抄』)のところが、「清水などにまうでて」となっている。これはどういうことなのか。
2 種々の『枕草子』
『枕草子』にかぎらず、一般に「古典」とよばれる作品は、往々にして異なった何種類かのテキストをもつ。『源氏物語』における「青表紙本」や「河内本」、『平家物語』における「覚一本」や「延慶本」、「長門本」などである。『枕草子』の場合も例外ではない。
『枕草子』には、今日、
三巻本 |
能因本 |
前田本 |
堺本 |
の、4系統の本文が伝えられている。そのうち、前2者(三巻本、能因本)は、「〜は」、「〜ものは」に代表される随筆的章段と、清少納言の宮仕えの経験から生まれた日記的章段とが渾然と入り交じった雑纂形態のテキストであるのに対し、後2者(前田本、堺本)は、随筆章段と日記的章段とを分け、類聚再編した類纂形態の特異なテキストである。
さて、古典文学全集類の底本に採用され、今日広く読まれている『枕草子』は、3巻本である。すなわち「清水」となっているのは「三巻本」なのである。他方、江戸時代に版本として流布していたのは、「能因本」とよばれるテキストで、「はつせ」はそこに見出される本文なのであった。つまり「はつせ」、「清水」の違いは、それぞれの時代が採用した『枕草子』テキストの違いに発する現象だったのである。
その両テキストの流布について概略すれば、「能因本」は江戸時代ごく初期にまず古活字版、ついで整板本が出版され、さらにその系統の本文をもとに、『枕草子傍注』や『枕草子春曙抄』といった注釈書が刊行されて流布した。なかでも『春曙抄』は、近代にいたっても利用され続けた『枕草子』のベストセラーであった。
春曙抄に伊勢をかさねてかさ足らぬ枕はやがてくづれけるかな (与謝野晶子)
宣長だけでなく、与謝野晶子も『枕草子』は『春曙抄』で読んでいたのであり、清少納言が法螺貝の音を聞いたのは長谷寺だと思っていたはずである。他方「三巻本」は、江戸時代を通じて出版されることなく、その存在は知られていたものの、『枕草子傍注』凡例が、
清少納言ノ篇帙ニ多少區別有リ。所謂三巻五巻七巻ナリ。其内、三巻之本少ウシテ、見ル者亦少シ。七巻之本ハ、書林風月堂開板多ク世ニ行ハル。 (原漢文)
と述べるように、それを目にすることのできた者は少数であった(ちなみに、「清少納言」とは『枕草子』のこと、「五巻」本は古活字版本、「七巻」本は整板本を指す)。その「三巻本」が『枕草子』の信頼すべき伝本として評価され、出版されるのは、第2次大戦後、昭和21年初版の田中重太郎『日本古典全書枕草子』(朝日新聞社刊)からである。
以後、「三巻本」を底本に採用した校注書の出版が相次ぎ、高等学校、大学等における教科書もそうした学界の動向に従って「三巻本」となるにいたり、「能因本」を見ることはかえってむつかしいような状況が生じた。そのなかにあって、唯一「能因本」を底本に採用したのは、松尾聡校注の『日本本古典文学全集枕草子』(小学館刊、昭和49年)で、「能因本」研究の貴重な成果であるが、『新日本古典文学全集』への新装改版に際して、底本が「三巻本」に変更され、旧版が絶版になったのは惜しまれる。
3 本データベースの底本
この『枕草子』画像データベースは、前節で述べたような理由から、今日参看することの必ずしも簡単ではない「能因本」の画像テキストを、江戸時代に出版された版本2種で提供する。いずれも、九州大学附属図書館支子文庫蔵本である。
2種のうち、一つは中世末期、朝鮮半島より将来された活字印刷の技術によって成った古活字版『枕草子』、いま一つは古活字出版の非効率性を克服すべく江戸時代寛永年間以降に興隆した整版本のそれである。後者は慶安2年(1649)に京都の澤田庄左衛門によって上梓され、その後に、前節所引『枕草子傍注』凡例に見える風月荘左衛門による後刷を有する整版本で、本文のみの整版『枕草子』としては唯一のテキストである。
それに対して、古活字版は、その少部数出版という制約からしばしば版を組み替えたり、活字を差し替えたりしての、異版の出版が行われ(一例をあげれば、『源氏物語』には5種の異版が存在する)、『枕草子』には、大きく分けて3種の古活字版が知られている。すなわち、それぞれ1面の行数を10行、12行、13行とする3種である。が、川瀬一馬『古活字版之研究』によれば、その3種はさらに7種に細分されるという。次に、同書より古活字版『枕草子』の分類と同書刊行当時の所蔵者(機関)の一覧を引用する。
第一種本(慶長中刊十行本) 内閣文庫・祐徳文庫 |
第二種本(慶元中刊十二行本) (解説者注、「慶元」は「慶長・元和」の意。) |
(イ)種 神宮文庫・京都帝国大学・陽明文庫 |
(ロ)種 東洋文庫・高木文庫 |
第三種本(寛永中刊十三行本)
(イ)種 内閣文庫・帝国図書館・東洋文庫・静嘉堂文庫 |
(ロ)種 帝国図書館・広島文理科大学・東大寺仏教図書館・久原文庫・東洋文庫・正宗敦夫氏 |
(ハ)種 内閣文庫・京都帝国大学・帝国図書館・安田文庫・成簣堂文庫・田村専一郎氏・兵庫前川氏 |
(ニ)種 東京文理科大学・安田文庫・高木文庫・武藤元信氏旧蔵 |
本データベースに収録した九州大学蔵支子文庫本は、古活字版『枕草子』としては後発の第三種、寛永年中刊13行古活字本、その中では(ハ)種に属する一本である。本書は全5巻のうち第五冊目を欠くが、じつは旧蔵者田村専一郎氏存命中から夙に知られていた本で、上記一覧の第三種(ハ)種の項に「田村専一郎氏」とあるのは、この支子文庫本のことに他ならない。
さて、これら江戸時代の古活字版、そして慶安板本は、能因本として必ずしも善本とはいえないテキストである。現存能因本中の善本として『校本枕冊子』の底本に採用され、影印本も刊行されている(「笠間影印叢刊」)、三条西家旧蔵学習院大学蔵本と比較すると、かなりの異同が見られ、本文の脱落等も目に付く。一例をあげれば、10行、12行、13行の古活字3本はいずれも112段を欠き、それは慶安板本にも受け継がれている、というように。ただしこれは不注意による脱落ではなく、おそらくは意図的な削除を示すものである。なぜならば、112段とはまったく同じ記事が89段にあり、三条西家本が同一内容の記事を89、112両段に重出させているからである。古活字本はその重複の一方を削除したのであろう。
しかし同じ古活字本でも、10行本12行本はともかく、13行本になると、本文の質を疑わせるような欠落が目立つ。たとえば、13行本は『校本』192段から196段までを脱落させており、のみならずその脱落もそっくり慶安板本に受け継がれていくのである。
他方、13行本と慶安板本との間にも落差があり、13行古活字本に較べて慶安板本はさらなる脱落を示すことがある。その一つは78段から80段にかけての個所で、慶安板本では以下のようになっている。
…………………………………………………………………… |
み え て を こ せ 「う ち つ ほ ね は ほ そ 殿 い み し う お か し 78段 |
か み の こ じ と み あ け た れ は 。 風 い み じ う ふ き い り て |
夏 も い と 涼 し 。 冬 は 雪 あ ら れ な ど の 。 風 に た ぐ |
ひ て 入 た る も い と お か し 。 せ ば く て わ ら は べ な と の |
の ほ り ゐ た る も あ し け れ は 。「 人 し て み せ な と す る 80段 |
に 。 い ひ あ て た る は 。 さ れ ば こ そ な ど い ふ も お か し。 |
………………………………………………………………… 。 |
すなわち慶安板本では、78段は5行しかなく、しかも79段をとばして80段になり、その80段は「人してみせなどする」という文句から始まる。ところが1行の字数がほぼ同じ13行古活字本の78段は34行あり、その後に79段が続き、また、80段の書き出しは「しきの御さうしにおはしますころ………」となっている。ということは、慶安板本は、78段をほぼ30行近く欠落させると同時に79段全体12行分を欠き、さらに80段冒頭の7行余を欠いた本文であるということである。しかも、その欠落部分は13行古活字本の5丁および6丁の版面に一字の過不足なく一致する。これは、田中重太郎氏が『校本枕冊子』で指摘するように、慶安板本の本文が13行古活字本2冊目の「五丁六丁ノ欠落本ニ拠リタルタメ」か、あるいは慶安板の板下制作者が誤って13行本の5,6両丁をとばしてしまったかの、いずれかにもとづくものであろう。
しかし、慶安板本にはもう一箇所、すなわち26,27,28段の欠脱という現象が見出されるが、こちらの方は、そのような13行本と関連付けた説明はできない。
このような一面を持ちつつも、慶安板本『枕草子』については、はやく正宗敦夫、鈴木知太郎両氏が、「古活字本を底本とし、3巻本系統本によって校訂された本文である」と説き、田中重太郎氏もそれに従う(『校本枕草子』諸本解題)。そして、その慶安板本の本文が、江戸時代を通じての『枕草子』のベストセラー『枕草子春曙抄』の本文に大きな影響を及ぼしているのであった。
本データベースは、『春曙抄』前夜の、江戸時代初期における『枕草子』の姿を、鮮明なカラー画像で提供するものである。
付・支子文庫について。
「支子文庫」の「支子」は「くちなし」と読む。九州大学名誉教授故田村専一郎氏の蒐集にかかる、国史、国文関係図書約1万冊からなる文庫で、氏の歿後、九州大学附属図書館に収められた。蔵書中、特記すべきは、重要文化財指定、現存最古の『大和物語』写本で、同書のみは、氏の生前に九州大学に寄贈された。田村氏は岡山県の生まれ、東京大学文学部卒業、旧制福岡高等学校教授を経て、九州大学教養部教授。昭和50年8月12日歿。その蔵書には、「支子文庫」、「支子舎」、「遙山房」、「遙山麓舎」、「松下人」等の蔵書印が捺されている。
参考文献
田中重太郎『校本枕冊子』全5冊 |
(古典文庫 昭和28年〜49年) |
池田亀鑑『随筆文学』〔池田亀鑑撰集〕 |
(至文堂 昭和43年) |
楠道隆『枕草子異本研究』 |
(笠間書院 昭和45年) |
岸上慎二『枕草子研究』 |
(新生社 昭和45年) |
日本文学研究資料叢書『枕草子』 |
(有精堂 昭和45年) |
松尾聡『能因本枕草子』〔笠間影印叢刊9〕 |
(笠間書院 昭和46年) |
田中重太郎『枕冊子全注釈』全5冊 |
(角川書店 昭和47年〜平成7年) |
松尾聡『日本古典文学全集 枕草子』 |
(小学館 昭和49年) |
柿谷雄三・山本和明『富岡家旧蔵能因本枕草子』 |
(和泉書院 1999年) |
川瀬一馬『古活字版之研究』 |
(安田文庫 昭和12年) |
中野三敏『近代蔵書印譜』二編〔日本書誌学大系41−2〕 |
(青裳堂 昭和61年) |